サイトを新装開店
火曜日, 2月 19th, 2008新装開店のため、サイトをXOOPSからWordPressに移行。
現在進行形(爆)
新装開店のため、サイトをXOOPSからWordPressに移行。
現在進行形(爆)
夜闇で光る猫の瞳のような月が部屋の窓からベッドを覗く。
蒼く澄んだ淡い光は白いシーツを更に白く映えさせ、曇りを一切寄り付かせない。
枕から流れる栗色の長い髪は穏やかで、涙に濡れた頬はもう乾いている。
規則正しい寝息を立てるのに、包帯が巻かれた右手はもう何所にも行かないで
というように千歌音の指に絡み離さない。
左手を動かなさいように千歌音はゆっくり体を起こした。
息を殺して、幼子のような姫子に顔を近づける。
安心しきった寝顔。
あれだけ酷い事をして、無理やりその体を奪って泣かせた。
なのにまだ、こんなにも身を委ねてくれる。
純粋に好きでいてくれる。
「…姫子」
吐息の掛かる距離で、千歌音の瞳が辛そうに歪んだ。
このまま唇を重ね、呼吸を忘れられたらどれほど楽だろうか。
微かな情動と心を締め付ける罪悪感に突き動かされそうで、千歌音が唇を噛む。
「ん…」
ふと姫子が寝返りを打った。
右手をそのままに、仰向けに体を転がす。
胸に刻まれた太陽の痣が千歌音に追い討ちを掛けた。
突きつけられた運命に目を見開き、顔を逸らす。
対として刻まれた背中の月は酷く痛い。
この想いの代償は世界。
この命の報酬は愛しき者の生。
幾度も繰り返された運命は、まるで轍のように心に跡を残す。
平行を辿る跡は、決して交わることは無い。
どこまでも真っ直ぐに、対で地平線まで伸びる。
その轍が途切れた時、世界は大蛇の物となり世界は終結を迎える。
それは、かつての陽の巫女の死を無意味にし、同時に姫子への裏切を表していた。
己の掌を千歌音は苦々しく見つめる。
記憶が甦ったあの時、同時に思い出した感触。
最期の儀式で己が想い人を手に掛け、世界を選んだ穢れた手。
他に方法が無かったとしても、世界を元に戻す為だったとしても。
キリっと千歌音が想いを噛み千切った。
握り締める掌に爪が食い込む。
ゆっくり千歌音は姫子から離れた。
仰ぐように夜闇の瞳を見据える。
「ここで…止める訳には、いかない…」
自分に言い聞かせるように千歌音は月に放つ。
運命を呪いながら千歌音は瞳を閉じた。
そして愛しく思いながら瞳を開ける。
久遠の運命は過酷で、最期まで無情の悲しみに包まれる。
だけどそれは、幾度転生を繰り返しても必ず会える証。
唯一の救いのような出会いは何よりも嬉しくて、誰よりも幸せを与えてくれる。
「だから私は…」
視線を落とし、千歌音はゆっくり姫子の頬に唇を寄せた。
「好きよ姫子。…誰よりも」
何時までも、と瞳で紡ぎ千歌音は誓う。
必ず護ると。
「貴女に幸せを」
心より微笑んで、立ち上がる千歌音に、繋がった手と手が離れて落ちた。
西洋のだだっ広い屋敷の中央に位置した広間の更に中央で、陶器で作られた
ポットから紅茶が曲を描きながらカップへと収まって行く。
ポットに掛けられた指がついとキレの良い動作を見せ、ポットの口を汚す事無く
紅茶を切る。
「お嬢様、お茶が入りました」
言って、メイド服に身を包んだエリノアはテーブルにティーソーサーとカップを置
いた。
「ありがとう」
一人用のソファーの上で体育座りをしていたお嬢様こと、マーガレットが微笑む。
TVの電源を落とし、のんびり足を伸ばす。
静かにソファーから離れるマーガレットをカップの暖かい湯気がまだかなと待つ。
「あ…」
ふと、カーテンの隙間から差し込む明るさにマーガレットは気づいた。
カップへ向かれていた足がくるりと反転する。
カップの心露知らず。
マーガレットは窓際に向かった。
カーテンを開き、ぼんやりと月を眺める。
「お嬢様。如何なされましたか?」
放心するかのように月を見上げるマーガレットにエリノアは問いた。
「…月…」
瞳に写る真円のみをマーガレットは呟く。
窓の硝子に手を沿え、身じろぎ一つしない。
心此処に非ずと言った所か。
二つに分けられた三つ編みのが時折微かに揺れる。
くすりとエリノアが笑んだ。
足音立てずにマーガレットの側に寄り、同じように月を眺める。
明るく光る白い月は部屋の明かりよりも輝き、間近で光る一等星をくすませた。
「綺麗ですね」
「うん」
視線を外さないまま頷き、マーガレットは窓を開けた。
食いるように前のめりで見上げる。
暫く窓際を離れなさそうなマーガレットにエリノアは数歩後ろに下がった。
背を向け、待ち草臥れたカップとソーサーを下げる。
代わりにカーディガンを一枚手に、マーガレットの元へエリノアは戻った。
「お嬢様。これを羽織り下さい。そのままでは風邪を引いてしまいますわ」
「うん…」
心此処に在らずなマーガレットは頷くだけで振り返らない。
少し肩を竦め、エリノアはマーガレットの肩にカーディガンを掛けた。
「ねぇエリノア」
やっと現実に戻って来たのか。
マーガレットはエリノアを呼んだ。
「何ですかお嬢様」
体の前で手を重ねエリノアは微笑む。
「ヴァネッサもこの月見てるかな?」
「そうですね」
言って、エリノアはもう一度真円を見上げた。
「きっと見てるんじゃないでしょうか?」
世界何処で見ても変わらない月は遠い空の下でも同じ輝きを放っているだろう。
「この白い月を」
「白い?」
きょとんとマーガレットが首を傾げた。
月とエリノアを交互に見つめる。
「白い…」
不思議そうなマーガレットにエリノアは目を瞬かせた。
「私何かおかしな事言いましたか?」
「ううん。何でも無い」
ふるふる首を振って、マーガレットは月に視線を戻す。
「白くて…赤い…月…」
ぽつんと落ちた呟きが聞こえたのか、真円が一際輝いた。
厚い密林に覆われた遠い空。
高温多湿の世界は一定の年月を決める事無く、戦争が続いていた。
ニュースで頻繁に名を馳せる戦争国ガザッソニカ。
唯一の非武装地域も確実に安全とは言えなかった。
それでも、武装地区に比べれば飛び交う銃弾の数も少なく、観光客も多い。
その非武装地域のホテルの一室でヴァネッサはノートパソコンに向かっていた。
眼鏡を掛け画面に向かう顔つきはキャリアウーマンその物だ。
一心不乱に仕事に没頭する。
他人の目には素晴らしい仕事風景も同室のマドラックスから見れば無防備とし
か言いようが無い。
転がっているソファーからマドラックスはヴァネッサに話し掛けた。
「相変わらず無防備ね」
「え?」
画面から視線を上げたヴァネッサが眼鏡を外す。
「マドラックス何か言った?」
届かなかった問い掛けにマドラックスは肩を竦めた。
「何でも無いわ。それより少し休まない?昼からずっとその調子なんだもの。見て
て疲れるわ」
言われて、ヴァネッサは腕を組んだ。
首を横に倒すとコキと骨が鳴る。
「そうね。少し休もうかしら」
「お茶淹れるわ」
肩の力を抜くヴァネッサにマドラックスは立ち上がった。
部屋の隅に備え付けられたカップに紅茶のティーバッグを入れる。
後ろ姿だけ見るとその筋では有名なエージェントとは到底思えない。
「本当、見えないわね」
普通の女の子の後ろ姿にヴァネッサは笑んだ。
「え?何か言った?」
振り返るマドラックスにふるりと首をヴァネッサは振る。
「何にも」
言って、ヴァネッサは窓際に歩んだ。
カーテンを少し開け、窓を開けると新鮮な空気が部屋へと流れ込む。
都会とは異なり夜闇はかなり深い。
木々の葉が擦れる音だけが耳に届く。
「こうしてると戦争してるとは思えないわ」
「見た目わね」
お茶のたゆたう二つのカップの一つをマドラックスはヴァネッサに渡した。
「実状は全く違うわ」
ふぅとカップにマドラックスは息を吹きかける。
「この国はいかれてるもの」
「マドラックス…」
幼い頃からエージェントとして生きて来たマドラックスにとって戦争は当たり前の
日常で、平穏な人生を送って来たヴァネッサには想像できない。
言葉を掛ける事すら惑うヴァネッサにマドラックスは続けた。
「他の世界と変わらない物と言えば…そうね…」
ゆっくり空を見上げる。
「あの月くらいかしら」
微笑むマドラックスにヴァネッサは月を見た。
真円は平和を象徴するように明るく輝いている。
「そうね…」
ふっとヴァネッサは微笑んだ。
「月だけは世界何処で見ても変わらないわね。この白い月だけは…」
「白い?」
きょとんとするマドラックスにヴェネッサは繰り返す。
「白いでしょ?ほの白いと言った方が正しいのかもしれないけれど」
「白…」
手すりに手を添えてマドラックスは月を凝視する。
「マドラックスどうかしたの?」
「ううん。何でも無い」
言って、くるりとマドラックスは身を翻す。
「そろそろ中に入りましょ。ずっと外にいるのは危険だわ」
ヴァネッサの背を押し、マドラックスは部屋へと促した。
窓を閉め、鍵を掛ける。
カーテンを引き、月を隠す寸前、微かにマドラックスが呟く。
「白い…青い月…」
空の真円は青く輝いていた。
お昼を知らせる鐘が風華学園に鳴り響くと、静かだった学園内は一変して騒がし
くなった。
友達と一緒にお弁当を広げる生徒がいれば、購買部へと急ぐ生徒もいる。
食堂では券売機の前で財布と相談する先生もいたが、皆一様に頭の中は昼食
で一杯だ。
誰もが心を一つにする当然なお昼休みの中で生徒会室だけは雰囲気が違って
いた。
「あ、あの…先輩…」
躊躇する女子生徒の声は微かに震えている。
頬は赤く染まり、座っている椅子の端を耐えるように指先が握っていた。
「大丈夫どす」
女の子の胸元のリボンを指で弄ぶ静留は囁く。
「あんたは何も心配せんと。うちにみんな任せたらええんどす」
「で、でも…」
「安心しよし」
それでも恥らう女子生徒にリボンから手を離し、静留は耳の前に落ちる長い黒
髪を一房摘んでキスを落とす。
「乱暴になんてせぇへんから…な?」
上目遣いのような瞳に静留がわざと艶を持たせると女子生徒の頬は更に赤く染
まった。
周囲を確かめるように女子生徒の目が泳ぎ、やがて小さく頷く。
「ええ子やねぇ」
同意と見なした静留は小さくほくそ笑み、細い肩を抱き締めた。
肩越しに長い黒髪を目に映すと、切なく眉を寄せる。
瞳を伏せ、瞼の奥に刻まれている人物を想う。
黒髪を一房指に絡め、瞳を開けないまま静留は唇を寄せた。
今から秘め事が始めようとする静留の表情に喜びは無い。
「肩の力を抜きぃ」
女子生徒のブレザーに手を掛け、淡々とリボンを解く。
そんな秘め事を暴くように、不意に生徒会室の扉が開いた。
「静留さん…おっと」
「あら黎人さん」
微かに驚いた顔をする黎人に動揺する事なく、静留は微笑む。
「ごめん。お邪魔したみたいだね」
「ほんま、野暮なタイミングやね」
のんびり会話する二人とは裏腹に赤かった女子生徒の顔は羞恥で青ざめていた。
「せ、先輩……」
「あぁ…堪忍な」
怯えるように全身を震わせる女子生徒から体を離し、脱がしたブレザーを静留
は羽織らせた。
「邪魔が入ってしもたさかい。続きはまた今度にしましょ」
静留が囁いても女子生徒の顔は色を取り戻す事は無く。
乱れかけていた襟元を握り締めて、逃げるように黎人の横を通り過ぎて出て行く。
涙ぐんだ顔を見て見ぬ振りをして黎人は生徒会室の扉を閉めた。
「せめて鍵を閉めてあげなきゃ可哀想なんじゃないかな」
椅子に座ったまま追う事も見送る事もしなかった静留が嘆息する。
「せやねぇ。お蔭でえらい中途半端な気分で終わってしまいましたわ」
満たされなかった欲のみを惜しむ静留に、黎人は肩を竦めた。
「それに無用心だよ。僕以外の誰かに見られたらどうするんだい?」
「お昼に生徒会室に来る人なんてうちか黎人さんくらいやないの」
学園祭などの大きなイベント前ならいざ知らず、お昼にわざわざ生徒会室を訪
れるのは生徒会長の静留か副会長の黎人くらいしかない。
何かと張り切っては、静留に噛み付く執行部の面々もお昼は園内の見回りで忙しい。
それを理解しているからこそ、静留は秘め事の場所に生徒会室を選んだ。
「黎人さんなら扉を開ける前に察してくれるとうちは思てたんやけどねぇ」
「すまないね。ちょっと寝不足だったもんで気づけなかったんだ」
わざとらしく欠伸の真似をして、黎人は備え付けの流しへと向かう。
「お詫びに僕がお茶を淹れるよ」
悪びれない黎人に瞳を細め、静留は椅子に深く腰掛けた。
息を紡ぐように吐き出す。
先の子はもう生徒会室には来ないだろう。
欲の捌け口という意味では代わりの子は幾らでもいる。
しかし、同じタイプはいつもの取り巻き内では思い当たらない。
久しぶりに新鮮な味が楽しめると思ったというのに。
口元に運んだところで無粋な男に邪魔をされてしまった。
「……別にどうでもええけど」
所詮、行き所の無い欲を消化させるだけの相手だ。
情を持って接するつもりもなければ、去る者を追う気もない。
心から欲している相手はただ一人。
それ以外は本当に、本当にどうでもよいと静留は思う。
とはいえ、情は動かなくとも体は本能に正直で。
中途半端なこの状態は少々きつい。
体は少なからず火照っている。
生徒会の仕事でもして熱を静めない事には隙を作りかねない。
「面倒な事をしてくれたもんやわ」
流しでお茶の準備をする黎人を横目で静留は睨む。
「静留さん、お茶が入ったよ」
「おおきに」
黎人の微笑みに笑みで静留は返した。
視線を流した途端振り返り、さり気なさを装う。
その動作に不自然や隙は全く無く、どんな事でもそつなくこなす。
絵に描いたような優等生の様は静留が熟知した人物と同じタイプで、静留がこ
の世で一番嫌いな人間と同類だった。
「静留さんの口に合うと良いんだけど」
「何言うてますのん。黎人さんのお茶はいつも美味しいどすえ」
「お世辞でも嬉しいね」
微笑みを交わしつつ、黎人と静留はお茶を啜る。
黎人は立ったまま片手でお茶を持っていた。
デスクに軽く凭れかかり、特に意味を持たない視線で生徒会室を眺めている。
一見はぼんやりしているようにも見えるのに。
隙は無い。
ほぅと静留は息を吐いた。
普段なら高校生とはかけ離れた黎人の自然体には同等の自然体で返す所だが
今は体に熱が燻っている。
僅かではあるが、気が散る。
「ところで、先刻の事なんだけど」
不意に、黎人は静留に問いた。
「静留さんは僕に口止めをする気はないのかな」
静かに気を張ってゆっくり静留は顔を上げる。
「あら?必要やったんどすか?」
「僕は言うつもりないけど、一般的にはするもんじゃないかな」
「言うつもりがないお人に口止めしても意味あらへんとちゃいます?」
「確かにね。……でも」
ふと、黎人の瞳が細まった。
「静留さんにだって知られたくない人が一人、くらいはいるんじゃない?」
含みを持った物言いは、知られたくない一人を知っていると言っているようで。
湯飲みを持つ静留の手が一瞬動揺した。
震えそうになる指を叱咤して、静留は笑む。
「誰の事を言うてるんやろか?」
「さぁ。ただの一般論だよ」
首を傾げて、黎人は微笑む。
「誰にでもそういう人が一人はいるもんみたいだからね。静留さんにもいる
んじゃないかと思っただけだよ」
まるで自分にはそういう相手がいないと言うように。
それでいて静留のそういう相手が誰かと知っているかのように。
「どうかな?」
黎人は静留に聞く。
「さぁ。うちにはそないな人思い当たらへんねぇ」
「そう。ならいいんだ」
微笑んで、黎人は茶を啜った。
静留もまた湯飲みを傾ける。
湯飲み口に歯が当たり、カチリと動揺の音がした。
「どうかしたかい?」
見計らった声に、静留は心中で歯噛みする。
「お湯の温度が高かったみたいやね。お茶に渋味が出てはりますえ」
「それは失礼。淹れ直そうか?」
「折角黎人さんが淹れはってくれたんやし。今回はこれでええどす」
「次からは気をつけるよ」
言葉に含みを持たせ、相手を揺さぶる。
何も知らない顔で全てを見透かした瞳をする。
真意は裏の裏まで隠して誰にも見せない。
本当に、本当に己に似ていて。
黎人がにこやかな笑顔を見せれば見せる程、静留の嫌気が増す。
「それにしてもあの子、可愛かったね」
不意に黎人は言った。
「名前は何て言うのかな」
相手を一人に限定しない黎人が興味を持つのは珍しいと静留は思う。
「黎人さんの好みの子やったん?」
「僕の趣味とはちょっと違うけどね。可愛い子だったとは思うよ」
言って、黎人は湯飲みを揺らす。
「好みで言うなら僕としては、なつきちゃん…」
口にされた相手にびくりと静留の体が強張る。
「…の友達の鴇羽さんだったかな。彼女の方が好みだね」
的中が横に外れ、静留の体から力が一気に抜けた。
「静留さん、どうかしたかい?」
「…いいえ。何もあらへん」
きりりと静留は唇を噛む。
微笑む顔を張り倒したい気持ちを必死で押し殺す。
「……ねぇ、静留さん」
湯飲みを黎人はデスクに置いた。
「先刻から調子悪いみたいだけど体の具合でも悪いのかい?それとも…」
静留に顔を近づけて、黎人は囁く。
「体が疼いて仕方ないのかな?」
低音の声は耳から静留の脳へと届いた。
女の性を突くような響きは本来ならそれだけで相手を十分手中に治められるだ
ろう。
しかし、本来の女の性と静留の性は異なる。
「…うち、あまりそういう冗談は好きやないんやけど」
「冗談のつもりはないと言ったら?」
吐き気すら覚える顔を静留は見据えた。
「先刻は僕とした事が野暮な事をしたからね」
言って、黎人は首元のホックを外す。
「せめて代わりをしようと思ったんだけど。…どうかな?」
覗き込んでくる瞳は黒く、情を映さない。
爽やかな微笑みで全てを隠している。
「……それもええかもね」
口の端を歪めて静留は笑んだ。
「黎人さんなら上手そうやし。うちを満足させてくらはりそうやわ」
デスクに両肘を突いて、指先を静留は絡める。
流し目のように瞳が細まった。
「男の人は初めてやけど。黎人さん、相手してくらはります?」
妖艶な笑みが情を映さない瞳を逆に誘う。
「どうどす?」
笑みと瞳は互いの隙を探り、己の心を隠す。
言葉は無く、想いも無く。
駆け引きだけが心理を探り合う。
ふと、黎人が身を引いた。
「自分から言い出しておいてなんだけど。やっぱり遠慮しとくよ」
苦笑して、黎人は首のホックを留める。
「僕が食われそうだ」
「あら残念」
降参と両手を上げる黎人を静留は蔑む。
「ええ体験できる思たんやけど」
「臆病者なもんでね」
肩を竦めて黎人は悪びれない笑みを浮かべた。
「負けたからと言う訳じゃないんだけど、静留さんにプレゼントがあげるよ」
微笑んで、黎人は湯飲みを手にする。
「時間。というプレゼントをね」
「時間、どすか?」
静留が首を傾げると生徒会室の扉が開いた。
「静留いるか」
「なつきっ!?」
「やぁ。なつきちゃん久しぶりだね」
驚く静留とは裏腹に黎人は快くなつきを迎え入れた。
まるで来るのを知っていたかのような素振りを不審に静留は思う。
一瞬、目配せが送られた。
「…お前もいたのか」
「相変わらずだね」
嫌そうななつきに肩を黎人は竦める。
「そんな顔しなくてもお邪魔虫はもう消えるよ」
微笑んで、黎人は静留に振り返った。
「ねぇ、静留さん」
すぅと瞳が細まる。
黒く、深い瞳は時間をプレゼントするよりも先に恩を売る。
押しつけの恩など願い下げだが、黎人が握る恩は静留にとっては命綱に等しい。
「……おおきにな。黎人さん」
言いたくも無い礼を静留は呟く。
「それじゃあね。なつきちゃん」
「ふん。出て行くならさっさと出てけ」
追い出すなつきと静留を見比べて、黎人は生徒会室を後にする。
「あぁ、そうだ」
扉の手前で、ふと黎人が振り返った。
「静留さん、鍵は閉めとくかい?」
「黎人さんっ!」
「ごゆっくり」
くすくす笑いながら黎人は生徒会室の扉を閉めた。
扉に凭れ掛かると、なつきの質問に言い訳する焦った静留の声が聞こえる。
「本当に可愛いね。静留さんは」
腕を組んで、喉の奥で黎人は笑う。
「…でも少し残念かな」
呟いた唇が笑みを消す。
「僕と同類と言うには……君は、純粋過ぎるよ」
こつりと扉に頭を預けた黎人の瞳がぼんやり宙を見つめた。
情を映さない瞳が寂しい色を浮かべる。
「だから応援したくもなるんだけどね」
瞳を閉じて、黎人はゆっくり扉から体を離す。
二人の邪魔にならないように。
頑張れと呟いて、黎人は音を立てずに生徒会室を後にした。
「……っ」
噛み付くように首筋を探られ、なつきは声を噛み殺した。
肌を滑る指は先刻から爪を立てながら掻き抱いてくる。
背中が痛い。
風呂は染みるかもしれない、なんて明後日な事が頭の片隅を過ぎる所を見る
と、 こんな組み敷かれた状況でもまだ余裕があるのかもしれない。
いや、あるのだろうとなつきは思う。
人は何故か我を失っている他人を見ると平静さを取り戻す事がままある。
まさに今がそうなのだろう。
組み敷いている当人は日頃の穏やかさを忘れ、呼吸が荒い。
所構わずキスを降らせながら、時折血を求めるように歯をきつく立ててくる。
その痛みが余計になつきを冷静にさせるとも知らずに。
獣が獲物を求める様は恐らく誰も見た事も想像すらした事無いだろう。
自分しか知らないと思うと密かな優越感が沸く。
食われている立場だと言うのに。
「なつき…」
息をつく間すら惜しんで名が呼ばれた。
体が熱い。
火傷しそうな位、じりじりと心が焦がされる。
静留の熱がなつきの体を侵食していく。
「なつき…なつき……うちは、あんたが……」
繰り返される同じ台詞に優しさは無くて、愛しさだけが募っていた。
切望して絶望して渇望した先にある、欲望。
暗い闇の淵から叫ばれる秘め続けた本心。
今はもう光が満ちている関係の筈なのに。
何故まだこんなにも苦しむ瞳で見つめてくるのだろう。
「…静留」
ゆるりとなつきは手を伸ばした。
静留の首筋に絡め、引き寄せる。
「ここにいるから…」
耳元で囁くと一瞬、静留の動きが止まった。
「私はここにいるから。どこにも行かないから」
静留の傍にいる。
暗に囁くと肩が小刻みに震えた。
次いで噛み合わない歯が無理やりすすり泣きを潰す。
そして、押し寄せてくる情の波。
全てを引き換えにしたような激しい情事は貪る事しか知らない。
それでも、なつきは受け止める。
その身を投げ出して、想いを重ねて、静留に応える。
復讐だけを生きる糧にする闇から救ってくれた恩を返すように。
殺し続けた想いに食われた心にもう一度光を思い出させるように。
光を浴びた微笑が見れる日だけを願って、なつきは静留を抱きしめ続けた。
どれ位、背を貸していただだろう。
シャワーの口から落ちていた雫も気づけば、垂れる物が無くなっていた。
動かないでいる濡れていたなつきの肌が次第に乾く。
ただ、唯一。
静留の貸している背中だけがしっとり濡れている。
暖かい。
否、熱い。
回された腕は酷く火照っていて、苦しんでいた。
静かになつきが息をつく。
酷い事をしていると、思う。
あの時。
共に逝く時、一番大切だと言った気持ちは本物。
今でもそう思っている。
静留も嬉しいと言って消えた。
だけどそれは……。
今までよりも、伝えれない想いを秘め続けた時よりも。
楽になった。
それだけの事だ。
静留が本当に求めているのは、親友じゃない。
気持ちを受け入れて貰う事でもない。
ただただ欲しいのだ。
なつきの心も、この身体も…。
シャワーの口からぽつんと最後の一滴が垂れた。
なつきの肌も完全に乾いている。
寒いと、なつきが思う。
身体よりも心が。
求めて、求められて、同じ想いなのに。
根底が交わらない。
一番深い場所は離れたまま。
指先すら触れない。
蝕の祭りの前も終わった後も。
それだけはどうしても変わらない。
ふと、静留が身じろぎした。
「…なつき」
ゆっくりと呼ばれ、なつきが振り返る。
「静……っ!」
なつきは息を飲んだ。
熱に浮かされた表情。
情に濡れた瞳。
結ばれた唇は血が滲むように紅い。
「し、ず……る」
震える唇が、上手く言葉を結べない。
名を呼ぶだけで、拮抗を保っていた何かが壊れそうで。
なつきは躊躇う。
「なつき…」
なつきの背筋がそぞろ立った。
名を呼ばれただけで肌が粟立つ。
「なつき」
回した腕に力が篭った。
一拍置くように吐いた息がなつきの背を撫でる。
「…好きどす」
びくんとなつきが身体を震わす。
もう知っている筈の想いがなつきの胸を突いた。
「好きどす」
先刻よりもはっきり耳に届く。
強めの口調が、何度も脳内で木霊する。
「…愛してます…うちはあんたを…愛してます…」
何時果てぬとも知れぬ想いを、回された腕に手を添えてなつきは止めた。
「解ってる…。もう、知ってるから…」
大丈夫だと言うように掻き抱く掌をなつきは強く握り締める。
「……堪忍な。好きになってしもて」
こつんとなつきの肩に静留は額を擦り当てた。
「こないな気持ち、持たへんかったら…親友でいられたんに」
「気にするな。考えても…どうにかなるもんじゃないだろ?こういうのは…」
言って、なつきは唇を噛んだ。
そう、どうにかなるものじゃない。
悩んで、考えて、気持ちをコントロール出来るなら幾らでも悩む。
それで、静留に応えられるのなら。
そんな事で、静留の気持ちを変えられるのなら。
今頃、お互いこんなにも痛い程の切なさは感じない。
ほぅとなつきは息を吐いた。
「静留…」
「…何?」
「好きだから…。お前と同じ気持ちじゃないけれど…」
瞳を閉じ、伝わるようにとなつきが響きを強くする。
「愛してるから」
我に返るように静留は目を見開いた。
「な、つき…」
口にするような人ではないのに。
照れ屋で、意地っ張りで、頑固で。
自分の想いを簡単に表に出すような性ではないのに。
「私も…愛し、てるから…」
耳まで赤くしてなつきは続ける。
「阿呆…」
「な、何だと!?」
「振り返らんといて!」
静留を見ようとするなつきを強く抱き締めて静留は制す。
「お願いやから…うちを、見んといて…」
懇願する声は涙が入り混じっていて。
振り返るのをなつきは止めた。
「なつきは…あんたは、酷い人やわ…」
「…済まない」
自覚があるなつきが素直に謝る。
「うちに…酷い事ばかりしはる…」
「そう、だな…」
振り払うのも優しさ。
応えられないのなら、突っぱねるのも思いやり。
解っているのに行えない自分は愚かだとなつきは思う。
「憎んでも、いいぞ」
膝の上で拳を握るなつきを、驚いた顔で静留は仰いだ。
「そないな事……」
出来る訳が無い。
そう言いかけて静留は唇を噤む。
再び背に額を預けると、黒髪が目に映えた。
真っ直ぐで艶やかな彩。
何度密かに口付けだろう。
意識が無いなつきに、どれだけ想いを告げた事だろう。
「……せやね」
息と共に静留が吐いた。
憎めたらどんなに楽か。
同じ気持ちを持てないと言いながら。
愛してる、と囁くこの人を恨めたらどんなに心が軽かろうか。
「憎いわ…」
ぽつんと静留は呟いた。
「うちは、なつきが……憎い」
慟哭のような呟きに、なつきが歯を食い縛る。
自分で言うのと、静留に言われるのとでは、どうしてこうも違うのか。
覚悟していた筈の苦しみになつきは苛む。
「憎うて、憎うて、どうしようもないのに……何でこないに…」
愛しいのだろう。
憎めば憎むほどそれ以上に愛しさが募る。
嗚咽すら吐けなくなるほどに、涙すら失うほどに。
愛しさだけが増す。 はぁと大きく静留は息を吐いた。
心が暴れている。
壊れた檻を取り替えてもう一度閉じ込めてみたけれど。
それは、とても脆い鍵が掛かっているだけ。
以前のように硬く、封じれない。
身体が、心が。
なつきの全てを欲して荒れ狂う。
理性を忘れ、自我のままに檻を脱走しようと試みる。
「なつき…」
するりとなつきの肌に静留は手を滑らした。
吸い付かせるように、でも躊躇するように。
ゆっくりとなつきの身体に掌を纏わりつかせる。
「ん…」
脇腹に触れられ、なつきがぴくんと身体を震わせた。
「し、ずる?」
掠れた声が敏感に静留の変化に気づいて、振り返る。
濡れた瞳がしっとりとなつきを見つめた。
滑らすようになつきの胸に触れる。
「お、い…しず……」
止めようとした手が払い除けられた。
「ま、て…て……んん!」
体ごと振り向くと唇を塞がれる。
「っ…ふ…ぁ…」
不意の深い口付けはなつきに呼吸すら許さなかった。
絡められた舌がもっと、と言う。
蹂躙され、貪られ、唾液すら飲み下される。
嚥下した静留の喉がごくりと音を響かせた。
それでも、静留は唇を離そうとはしない。
顎に手を掛け、もう片方の手でなつきの胸を上下に揺らす。
ゆっくりと優しく、時には嬲るように激しく。
悲しい事に、その度になつきの身体は大きく反応した。
息が絶え絶えになり、身体が急激に力を失っていく。
目の前が白くなる。
何も考えられなくなる。
その中で、感覚だけが静留の存在を離そうとしない。
ぴちゃと音を立てた静留がようやっと唇を離した。
「し……ず……」
酸素を求めて荒い呼吸をなつきは繰り返す。
だが、それは束の間の休息で。
首筋に舌を這わす静留に、なつきはまた息を詰めた。
「や、め…静…」
肩を押し返そうとしても、急速に抜けた力は急激には戻ってくれない。
弱々しく添えるだけが精一杯だ。
その間にも、静留の唇は首筋から鎖骨へ。
胸の頂きへと移動する。
「ふ…ん…っ。……痛っ!」
きゅうと強く噛まれ、針を刺されたような痛みになつきの身体が竦む。
「敏感やねぇ」
「そ…う…問題、じゃ…ない、だろ…んぁ…」
もう片方の膨らみも口に含まれ、なつきが身悶えする。
先刻とは対照的に静留は優しく触れた。
謝るように唇を使い、柔らかく吸う。
知らない感覚がなつきの背を這い上がる。
「頼むから…も、止めてくれ…静留」
眦に涙を溜めて、なつきは懇願した。
「何でぇ?」
ぷつんと静留が唇を離す。
「気持ち良ぅないん?」
「な、るか…こんな…で…」
「そうどすか?」
きょとんと静留が首を傾げた。
年相応の幼さが一瞬乗り、なつきが薄っすらと瞳を開ける。
不思議そうに瞬く瞳がなつきを安堵させた。
しかし次の瞬間、するりと内腿を撫で上げられ、幼さが掻き消えた。
残ったのは自嘲にも似た、空ろな笑み。
内腿の、付け根近くを指が滑る。
「…っ…」
零れそうになった声を、唇を噛んでなつきは潰した。
「ほら、こないに気持ち良さそうにするやないの」
「ち、違…」
「照れんでもええんよ?」
過剰な反応を耳元で囁かれ、羞恥でなつきの頬は赤く染まり、 楽しむように静留が笑む。
「なつきかて…女や、さかいに…な?」
女。
理性ではどうにもならない深い部分を擦られ、 振り切るように激しくなつきは首を振った。
「違う…違う!!私は…」
「何も違わへんよ」
「―――っ!」
本能に抗うなつきをあっさり静留は否定した。
なつきの頬に頬を摺り寄せ、耳朶を食む。
「うちも女…。気持ちええとこはよぉ解るんよ…?」
妖艶に微笑み、耳元に囁きを落とし、静留はなつきの中心へ触れた。
「っ!」
なつきの身体に電流が走る。
痺れるような、打ち震えるような奇妙な感覚。
「ほら…な?」
想像通りの反応だったのか。
静留が楽しそうに指を奥へと滑り込ませる。
「うっ…あぁ!!」
悲痛ななつきの叫びが浴室に響き渡った。
静留の指が淫らな音を絡ませ、嬉しそうにはしゃぐ。
「思った通りやわ…」
くすりと静留が微笑んだ。
「なつきん中、狭くて…でも、暖かい」
言って、なつきの胸の膨らみ口付ける。
「あんたのここと一緒…」
幸せそうに擦り寄りながら。
「暖かく…うちを包み込んでくらはる」
悲しそうに静留は瞳を伏せた。
なつきに凭れ掛かりながら、堪えるように唇を噛む。
その間も指だけ別の意思を持っては蠢き続ける。
「静…や、だ。…痛…い」
我慢出来ずになつきが静留の手首を両手で掴んだ。
先刻からの奇妙な感覚に惑わされ続ける指には力が入らない。
「せやろなぁ。なつき、こないな事初めてやろ?」
言って、静留は指に力を込めた。
「ふわっ…!!」 添えるのが精一杯だった指が滑り落ちる。
それでも、静留は動くのを止めなかった。
「どうなん?うちが初めての相手やないの?」
問いながら、なつきを昂ぶらせる。
「頼む…から、やめ…くれ」
唾液を顎に伝わらせたなつきが弱々しく首を横に振った。
「お願い、だ……静留……」
目頭が熱い。
頬を伝ってしまいそうな雫は目蓋を閉じても堪え切れそうになくて。
短い呼吸をなつきが繰り返すと案の定、涙が零れ落ちた。
「答えになってへんよ。…なつき」
留めなく流れる涙を舌で掬い、静留はなつきの中の指を半回転させる。
「ぐぅ…っ!」
歯を食い縛ってなつきが堪える。
「は……はぁ…、た、のむ……」
荒い息を吐きながら、なつきは静留の肩に頭を寄せた。
「でないと、私はお前を……」
その後、言葉は続かなかった。
嫌だと言うようになつきが唇を噛む。
「お願い、だ…静留」
「…なつき」
ぐっと強く静留が指を押し込んだ。
「んん…っ……!」
たまらずなつきが強く瞳を瞑る。
「憎んで…ええよ」
ぽつんと静留が呟いた。
泣きそうな声は聞き取れない程小さい。
殆ど、唇だけの呟きだったというのに、はっきり聞こえたのは、 あえて紡がなかったせいなのか。
薄っすらとなつきが瞳を開ける。
淀んだ視界に静留の輪郭が浮かんだ。
「うちを憎んでええよ」
静留が繰り返す。
嫌がったなつきの代わりのように。
「憎んで…憎んで……憎み、きって…」
覚束ない輪郭は、このまま消えてしまいそうなのに、声だけは意思を主張した。
「その上で……うちを、愛して…や」
切ない響きを聞かせる唇がなつきと強く交わろうとする。
柔らかく、熱く、どこまでも深く。
それでも、隙間は出来てしまい。
どうしても満たされない。
不意に、静留の指が速度を速めた。
「んん…っん!」
なつきの痛みは荒い息と共に全て静留の唇に受け止められる。
速度は速さを増すばかりで、壊そうとするようになつきを掻き乱す。
体の端から端まで。
芯の奥の奥まで。
本当の望みを、欲っする心を、忘れるなと静留が楔を打つ。
びくりとなつきが大きく跳ね上がった。
小刻みに身体を震わし、朽ちるように項垂れる。
自然と唇が離れ、静留は息をつく。
なつきを翻弄していた指を抜くとしっとり濡れていた。
ぺろりと一舐めしてみれば、微かに血の味がする。
どこか傷つけたのかもしれない。
「…なつき」
呼んでも応えは無かった。
ただ、だらりと垂れた腕だけが静留の瞳に映る。
目尻に涙。
頬に溢れた痕跡を残す。
軽く引き寄せると、有無を言わない身体が静留の胸に寄り掛かった。
「堪忍な…」
静留から一筋、涙が伝った。
なつきの頬と同じように、痕が残る。
どれだけ傷つければ気が済むのだろう。
受け入れられないと理解しながら。
求めて心を傷つけた。
手に入らないと知っていながら。
奪って身体を傷つけた。
そして全てが終わった今でさえやはり傷つける。
心も身体も同時に。
「ほんま…憎んで、ええのに…」
憎まれても仕方ないと思うのに。
なつきは口にしなかった。
きっとこれからも憎まれないのだろう。
例え何をしようと。
どれだけ傷つけて、奪おうとも。
なつきは静留を許す。
本当の、静留の本当の望みを叶えないままに。
共に在るのだろう。
「お互い、憎めたら…楽なんやろうなぁ…」
呆然と静留は天を仰いだ。
そうすれば離れられる。
顔を見なくても苦しい想いをせずに済む。
清々した顔で生きられる。 でも、出来ない。
この身が果てても無理だと、静留は思う。
叫びたくなるほど苦しくても。
どれだけ傷つけると知っていても。
残酷な優しさに縋ってしまう。
「…なつき」
切なさを響かせて、静留はなつきを抱き締めた。
確かな温もりが互いの肌を暖める。
「うちは、あんたを……」
頬を撫で、静留は瞳を伏せる。
「…愛してます」
囁きは重なった唇に溶け、涙に濡れた口付けは、どこまでも冷たかった。
雲が流れる。
空を霞で煙らせながら、ゆっくりと。
太陽を隠す。
陽射しは高く、空気はじめっとしている。
夏はもう過ぎようとしているのに、暑さはまだまだ残っていた。
生徒会室の窓を開け、静留はぼんやり空を眺めた。
雲に覆われた太陽が陰りを帯びる。
同時に、静留を照らしていた光も憂いを帯びた。
ゆるりと静留は天を仰いだ。
雲の端で紅の星が禍々しく輝く。
赤い凶星。
最初に見た時よりも媛星は遥かに成長している。
オーファンはもう出現しない。
凪の言う通りに。
そして、始まった。
Hime同士の戦いが。
最悪の祭りの最高潮の宴が始まった。
「あと…どれ位残ったはるんやろか…」
ぽつりと静留は天に問う。
静留がHimeだとは誰も知らない。
ひた隠しにしてきた功が奏している。
こうしてのんびりと空を眺められるのもそのお陰と言えるだろう。
「そないなつもりで隠してきた訳やないんやけどなぁ」
隠してきたのは、応える為。
想い人の負担にならない為。
本当は言いたかったけれど、それを望む人では無いから。
「なつき…」
愛しい名を囁き、静留は瞳を伏せた。
「無事でおるやろか?」
なつきの無事を憂う静留の顔は暗い。
静留と異なりなつきはHimeだと知られている。
最前線に立ち、率先して相手に向かって行く。
何時倒されてもおかしくはない。
「あと…どれ位…残ったはるんやろ…」
ぽつりと静留は問う。
それは、Himeの人数の事なのか。
それとも……。
「…なつき」
溢れる気持ちがじりじりと心を侵食する。
友達でいたかったけれど。
親友でいたかったけれど。
望まれるままに、演じてきたけれど。
もう限界だった。
好きという留まる事を許さない想い。
飲み込み続けた、たった一言の告白が、静留を苛ませる。
「あかん…もぅ、あかんよ…なつき…」
澱んだ熱に犯され続けた想いは、静留の精神さえも蝕んだ。
触れたい。抱きたい。自分だけの物にしたい。
それが叶わぬなら……壊したい。
誰かに奪われる位ならこの手で命の火を掻き消してしまいたい。
愛しく想う反面、憎しみに近い衝動が静留を掻き立てる。
「どっちが、先やろね…?」
つぅと静留の頬に涙が一筋の痕を残す。
「うちが壊れるのと…あんたを壊すのと…どっちが先なんやろね…」
言って、気づく。
瞳が細まり、唸るような笑みが喉を震わす。
「同じ事やね」
込み上げた笑いが次第に高くなり、生徒会室に響く。
「うちが壊れて…なつきを壊すんや」
見上げる紅の星に負けぬ禍々しさが、静留の瞳に宿る。
「あんたなんかに…運命なんかになつきは渡さへんよ」
言って、微笑む。
「なつきは、うちのもんさかい」
日が傾き、次第に空が晴れる。
明るい陽射しは戻って来たのに、静留の心は暗闇に覆われたままで。
「誰にも渡しませんえ。…なつき」
紅の星に魅せられた静留の残された時間はもう後がなかった。
『なつきが望むなら…ええよ…』
と、言ったものの静留の心中は複雑だった。
惚れた弱みと言うのか。
心の隅で望んでいたと言うべきか。
嫌という気持ちが無い事だけは確かだ。
むしろ喜びに近い昂揚がある。
なのに、どこか炎が燻るような曖昧な戸惑いが拭えない。
何がそんなに気になっているのか。
チラチラと感じる火は煙の中で。
その実在が捕らえれない。
代わりにTシャツを脱ぐなつきが目の端に映る。
ポンとベッドの下へ放り出し、素肌が空気に晒された。
至る所に刻まれた赤い印が素肌の白さを際立たせる。
ゆっくりと静留に唇が降りて来た。
チュッと湿った音が立つ。
視線が出会う。
熱が孕んだ瞳は頬を微かに紅潮させている。
唇が降りて来た。
今度は音は立たず、深く重なった。
静かに瞳を伏せ、静留がなつきの首筋に腕を回す。
隙を探るような舌の先端が応えた。
上唇から下唇へ。
「…ん…」
零れた吐息に、するりとなつきが滑り込む。
ツンと静留の先端を叩くと、頤が揺れた。
迂回するように大きくなつきが絡み付く。
「…ふっ…」
ねっとりした熱い感触が静留の鼻を突いて抜けた。
舌の奥までゆるゆるとなつきが絡み、静かに身を引く。
上顎が撫でられた。
「ん…ぅ…」
拙いながらもツボを探る動きは一生懸命で。
見つけた箇所を行ったり来たりしながら他を探す。
「…ふ…ぁ…ん…」
弄ぶ気の無い前戯は長くて、知らず知らずに静留の意識を混濁させた。
なのに、燻る惑いだけは燃え上がる事もなければ鎮火もしない。
中央でゆらゆらと煙を上げている。
この状況で何がそんなに気になるというのか。
どうにも行き着けないまま静留はなつきに身を委ねる。
ゆっくりなつきが唇を解放した。
「はぁ…」
深く息をつく静留のぼんやりした視界になつきの輪郭が映る。
「…なつき」
睦言のようにゆらりと湿った声がなつきを呼んだ。
「静留…」
頬にちゅっと一つ音が立つ。
目蓋にもキスを一滴降らしなつきは耳朶を食む。
鈍い動きで緩いカーブを撫で上げ、裏側へと伝い降りる。
「や…っ」
耳の奥に掛かる息に静留の肩が竦むように跳ねた。
先刻よりも大きな反応になつきが嬉しそうに吸い付く。
執拗に舐め上げ、齧り、嬲る。
「ちょ…な、つ…あん…」
その度に静留の体が震え、肩が跳ね、甘い声が漏れた。
面白いかもしれないとなつきは思う。
日頃されるばかりで、なつきが自分からする事と言えばキスを返すくらいだ。
それも何処で覚えたのか知れない静留の熟練された腕の前では、早々に封じられる。
翻弄されるだけ翻弄され、
気づいた時には言われるがままに声を上げ、されるがままに息が上がっている。
それを今はしたいように行い、見たいままに眺める事が出来る。
攻守が入れ替わった今初めて静留のネチッこさの理由がなつきは解った気がした。
「もっと声を聞かせてくれ」
わざと静留の耳元でなつきは囁く。
一瞬見開いた瞳が手の甲に慌てて唇を押し当てる。
その手に掌をなつきは重ねた。
「良いじゃないか」
ゆっくり外させ、顔の横に押し付ける。
「私しかいないんだから」
お返しするように言って、なつきは微笑む。
羞恥に染まった顔がソッポを向いた。
唇はきっちり結ばれている。
見届けたなつきの喉元が笑いを堪え震えた。
挑戦するように晒された首筋へと顔を埋める。
白い柔肌に唇を押し当て、躍動する脈の上を舌が這う。
「ぅ…ん…」
甘い痺れに唇が結び目を緩めた。
まずいと静留は思う。
全てとは言わないが己のツボはそこそこ把握している。
その一つになつきは確実に近づいていく。
辿り着かれたら…。
そう考えているうちに余裕が弾け飛んだ。
「あっ…はぁ…ん、ぁ…」
吐き出された熱に唇が結びを難なく解く。
当然のように上がってしまった声は体を密着させるなつきに聞こえない筈が無くて。
「ここか?」
問われて集中攻撃される。
「っ…あ、あか…な、つ…」
嫌々するように左右に振られる顔が、言葉にならない声を絞り出す。
息が弾む度に豊かな胸が上下して揺れる。
毀れ落ちそうに満ちた膨らみをそぅっとなつきは掌で包んだ。
ゴムボールのような弾力にゆっくり円を描くと掌の一点が登頂に突付かれる。
少し手をずらし指でなつきが摘む。
「くぅ…ん、あ…ぁ…」
堪らずと言った具合に静留の足先がシーツを擦った。
曲がった膝が身悶えする。
だが、覆い被さる存在のお陰で思うように動けない。
苛立ちにも似たむず痒い感覚が静留の体の芯を火照らせる。
もう唇は結べない。
絶え間ない浅い息が呼吸を繰り返す。
幾度と喉を擦る甘く切ない声が、掠れて外に漏れた。
その間に首筋から肩のラインを辿った舌はカーブを描いて鎖骨をなぞる。
窪んだ谷間を強く吸われる。
膨らみが噛まれ、やがて唇は登頂を薄く食んだ。
「やっ…!」
一点の刺激が全身の血液を囃し立てた。
静留の意識が浮いて、沈みかける。
そして気がつく。
何に戸惑っていたのか。
嬉しいのに何故迷いがあったのか。
見せたくなかったのだ。
情に喘ぎ、熱に犯され、それでも求めて止まない淫猥な己を。
浅ましい程に乱れる姿をなつきに知られたくない。
必死で波打つ体を堪える静留の目尻に涙が滲んだ。
脇腹に口付けるなつきの頭を手探りで探し当て、髪を掴み押し留めようと試みる。
なのに、指には力が入らなくて、隙間から髪は流れて逃げた。
なつきもそんな抗議に気づいた様子が無い。
と、いうより余裕が無い。
どこをどうすれば良いのか、自身はどこが良かったのか。
体の記憶のままに実践し続ける。
耳だけは静留の反応を聞き逃さない。
全ては静留の為に。
全部知り尽くしたい自身の欲の為に。
見た事の無い一面を引き出す。
しかしここに来てなつきは戸惑っていた。
緩慢な動きが更にスピードを落とし、同じ場所を行ったり来たりし始める。
細いウエストから緩やかに締まったお尻への上り坂を登りつつまた腰に下る。
行き先は決まっているのにどこで折り返せば良いのか解らない。
「…記憶が、無い…」
ぽそりとなつきが呟く。
静留が至る時。
同じような場所に辿り着く頃にはもうなつきの意識は飛んでいて、
体は静留の物になっている。
お陰で渦の中、必死に喘いだ記憶しかなつきには無い。
「…爪先まで行けば良いのか?」
それはそれで有りな気もするが何かが違う気もして、なつきは眉根を顰めた。
とは言え、よもや組み敷く相手に聞くのは気が引ける。
立ち止まった記憶になつきの手だけが、サワサワと静留の体を縦横無尽に撫で続けた。
薄い和紙を一枚挟むように無自覚の掌は静留の表面だけなぞる。
その触れるか触れないかの擽りはまるで焦らしているようで。
羞恥で涙ぐんだ静留の瞳が何時しか期待に潤んだ。
身悶えする熱に膝が震え、爪先がシーツを乱す。
口付けが落とされる腰に身を捩れば、なつきの髪が薄っすらと流れ刺激を強くした。
静留の中で一本の糸が張り詰める。
指先で軽く弾かれれば真っ二つに分かれる細い糸。
切れれば己を止められない。
熱のままに、情のままに、なつきを求めてしまう。
「な、つき…」
涙ぐんだ声が呼んだ。
「ん?」
掌が撫でるのを止め、なつきが顔を上げる。
「も、あかん…」
目映い視界に腕を当てて、静留は浅い息を吐きながら言う。
「これ以上は…うち、あかん…」
「あかんったって…」
そうっと静留の中心をなつきは覗いた。
潤みきった中心はねっとりと濡れている。
糸を引きそうな液体に、興味も重なったなつきはそうっと触れた。
「っ――!」
ビクンと静留の腰が大きく浮く。
悲鳴に近い声を静留は噛み締めて殺す。
「ほんま…っ…あ、かん…って…なつ、き」
空気を求めて反芻する胸に静留の頤が上がる。
「そうは言うがこの状態じゃ…」
指に絡んだ火照りに辛いだろうとなつきは思う。
「…静留」
指を擦り、瞬きの間考えたなつきは、もう一度熱に触れる。
「ああっ!」
甲高い悲鳴が上がった。
ガクガク静留の膝が震え、崩れ落ちる。
視界を遮っていた腕がずり落ち、濡れた瞳が整った眉を歪めた。
「か…堪…堪忍してや…」
「…静留」
首を横に振り続ける静留をそっとなつきは抱き締める。
「その、下手だとは思うが…頑張るから…」
宥めるように背を擦り、頬になつきはキスを落とす。
「少しだけ、我慢してくれ」
首筋にキスしてなつきは人差し指をそうっと静留の中に埋めた。
「ああっ!やぁっ…て!!」
「熱…」
初めて触れる他人の中は熱く狭い。
滑る液体が無ければ入る事すらままならないのではとなつきは考える。
「なつき…ほん、ま…っ…あかん…」
なつきに縋り、首を横に振り続けながらしがみ付く。
張り詰めた糸が凛と音を立てた。
競り上がる情に呼吸が喘ぐ。
荒い息が熱を吐き出す。
クッとなつきが指を曲げた。
「ぁ…や、くぅ…なつ、き…」
張り詰めた静留の糸が、
「…静留」
なつきの指に絡む糸が、
切れた。
どろりと熱が溢れる。
我慢していた分だけ情が求め訴える。
「あぁ…なつき、なつき…っ…き…」
なつきが欲しいと。
腰が勝手になつきの指を案内した。
浮き沈みを重ね、ゆるりと弧を描く。
「は、あぁ…くぅ…ん」
浅い夜明けから深い混沌まで。
「…深ぁ、して…や」
自らなつきを引き込む。
ごくりとなつきが息を飲んだ。
見た事の無い静留は妖艶で思わず見惚れる。
背筋がぞくぞくする。
体の芯が熱い。
される時とは違う昂揚感がなつきを犯す。
擦り寄る動きに合わせて、なつきは指を蠢かした。
窄まった入り口を押し広げるように。
狭い空間を掘り下げるように。
内壁を擦り、角度を刻み、引っ掻く。
静留から涙が零れ枕を濡らす。
目尻を舌で拭い、なつきは唇を重ねた。
舌を絡め取り、どろどろの熱が溢れる入り口に指を増やす。
「ふぁ!…ぅ…」
増した圧迫感に静留の背が大きく反った。
「…つき、…そこ…」
「ここか?」
言われるままになつきが指の腹で擦る。
「んんっ…あ、はぁ…」
静留の足がなつきの腰に絡み、体の密着を深める。
息苦しさになつきの片眉が上がった。
頭の芯が朦朧とする。
なのに情だけが花火のように弾け飛ぶ。
熱く、高く、花を散らすように舞う。
組み敷いたしなやかな体を綺麗だとなつきは思う。
唇を離し、豊満な胸になつきは顔を埋めた。
「ん…あぁ…っ…ふ、くぅ…」
舞い降りる喘ぎが耳を伝い、心を刺激する。
されていないのに気持ち良い。
静留の谷間で反射して返る熱すら嬉しく思う。
額に滲む汗が愛しい。
「静留」
静留の頬をなつきは掌で包んだ。
薄っすらと静留が瞳を開ける。
「なつ、き…?」
ぼんやり見つめてくる瞳にフッとなつきは微笑んだ。
グッと指を押し込める。
「んんっ!」
痛そうにきつく瞳が閉じられた。
なのに、喘ぐ息は嫌だとは言わない。
逆にキュッと指が強く締め付けられた。
先端から奥までなつきを吸い上げる。
遠慮を捨てて指は静留を蹂躙する。
教えられたツボを、自分で見つけた箇所を、次いで内部全体を。
なつきは刺激を与え続ける。
浅い息が歯を食い縛った。
「あ、かん…うち…も、ぅ…」
「…そうか」
終わりが見え始めた静留に少し残念そうになつきは頷く。
静留の首に腕を回し、引き寄せて動きを早くする。
「は、あ…っ、ん…ぃ…」
静留の身が固く縮んだ。
ぶるりと大きく体が震え、最後の花火が大輪を咲かせ、シーツの上に散った。
全身で呼吸する静留の体がゆらりと揺れて崩れ落ちた。
「静留!?」
慌てて静留の顔を覗き込むなつきに余韻無く指が引き抜かれる。
一瞬、静留が呻く。
そんな事気にせずに静留の顔をなつきは覗き込む。
「おい大丈夫か。生きてるか」
ペチペチと指の腹で頬を叩くなつきにゆっくり静留は瞳を開けた。
「大丈夫…言いたいけど、あかん…」
顔の横に腕を投げ出し、大きく息をつく。
「力が、入りまへん」
指先が痺れて動かない。
全身は気怠く、感覚が遠い。
「起きんのも…しんどいどす…」
ただ体の中心だけは甘い余韻に酔いしれている。
ゆるりと静留は瞳を閉じた。
その全身を投げ出す物腰に思う所があったなつきが顔を赤らめる。
「そ、そうか」
それだけ言って静留の体に布団をなつきは被せた。
自分の鼓動を落ち着かせつつ、静留の呼吸が整うのを待つ。
額に張り付いた前髪を掻き上げ、乱れ落ちている静留の髪を手櫛で梳く。
頬を掻き、ちょっと惑いながらなつきは静留に問う。
「その、しんどい…だけか?」
「…え?」
億劫そうに目蓋が開いた。
「痛い、とか気持ち悪い…とか、無いか?」
なつきが言わんとする事に気づいた静留の目元が綻ぶ。
「そないな心配せんでもええよ。ほんましんどいだけさかい」
「ならいいが…」
如何せん意を決した行動に静留を傷つけてないかなつきは心配で仕方ない。
素知らぬ顔で回復を待ちつつも静留の様子を何度も横目で窺う。
しかし何を言えば良いのか解らず言葉は紡げない。
気にし過ぎな程気に掛けるなつきに安堵して、静留は聞いた。
「なつきこそ…うちの事嫌いになってへん?」
「は?何で嫌いになるんだ?」
心底解らないと首を傾げるなつきに頬を薄紅に染めて静留は続ける。
「うち…あないに求めてしもうたし…。呆れてたりせんのかな、と思て…」
もそもそと布団に潜り込み、視線だけ覗かせる静留に馬鹿となつきは笑う。
「そんな事で呆れたり嫌いになったりするか」
言って、静留の髪を優しくなつきは撫でる。
「見た事も無い静留が見れて、聞いた事も無い声を聞けて私は嬉しかった」
悦に満ちた表情で言われ、静留は言葉に詰まった。
「そ、そうどすか…」
どうにかこの動揺を悟られまいと思案する静留になつきは更なる爆弾を落とす。
「それに凄く可愛かった」
嬉しそうな響きに、なつきの顔を真剣に静留は見れなくなった。
「普段からは全く考えられないからな。あんな静留は」
初めて見た一面がよっぽど嬉しいのか。
「子供のように縋りついてねだって、震える姿なんてまず他の奴等は知らんだろう」
饒舌に、切々と語るなつきに最早静留は口を開く事すらままならない。
「それに甲高い声も気持ち良さそうで」
布団の中に潜り、顔の火照りをシーツでひたすら冷やす。
「泣き顔も綺麗だったし…」
「な、なつき!」
まだまだ続きそうな情事の感想をくぐもった声で静留は止めた。
「それ以上は…言わんといて…」
すっぽり頭まで布団を被り、隙間から覗く静留の長い髪が頼む。
ん?と小首を傾げ、言動を振り返ったなつきはふむと頷いた。
「そうか。こういう気分なのか」
ぽつんと呟き、不敵に笑む。
その表情は勿論静留には見えなくて。
「なら最後にもう一つだけ聞きたいんだが」
至って楽しそうになつきは声を掛けた。
「…何どす?」
「また可愛い静留を見せて貰っても良いか?」
「――っ!」
それはつまり…そういう事で。
意味を解した静留に何とも言えない表情が浮かぶ。
そして、心に誓う。
揶揄るのは程々にしようと。
そんな静留に多くの新たな発見を喜ぶなつきの笑い声だけが響いた。
「…ん…」
濃厚な口付けは止む事を知らず、なつきを余す事無く味わう。
絡まる舌が声を追い詰め、喘ぎだけを許す。
飲み下されない唾液はなつきの顎を伝った。
その後をぬるりとした静留の舌が追う。
顎から首筋へ。
そして肩口で、軽く歯を静留は立てる。
「……っ!」
痛みになつきの肩が竦んだ。
顰められた顔を慰めるように静留は噛み跡を舐める。
そこから二の腕を伝い、手首まで軌跡を残すともう一度歯を立てる。
先刻よりも鋭い痛みは確実な痕をなつきに残した。
ゆらりと手を離す静留にぱたりとなつきの腕が落ちる。
「…は…ぁ」
長い息をなつきは吐いた。
「なつき…」
手の甲から指を絡め、胸の膨らみに静留は唇を落とす。
「ん…っ」
なつきの背が反り、上がった顎の先端を、静留が空いた手で撫で上げる。
「…やぁ…」
首筋を確かめる指に、なつきの体が小刻みに震えた。
体の中心に集まる熱は、胸で疼く。
目に見えない何かを心が欲する。
「静…」
首に腕を絡めるなつきに静留は応えた。
強く唇を塞ぐ。
舌を絡め、乾いた心に自分を捻じ込む。
掌は胸の膨らみを押し潰すように揉み扱く。
中止を指先で引っ掻けばなつきが大きく跳ねた。
「ふっ…ん」
発せられようとした声は静留の口中で掻き消える。
体を支えるのに突かれた左の肘が曲がり、指がなつきの髪を梳いて流す。
右手は胸の上で円を描いている。
強弱をつけて、なつきの反応を探るように。
時折、休憩する手は中心の突起を指で挟む。
その度になつきの背が反る。
そして、そこが一番反応が大きかった。
そぅっと静留が唇を開放する。
「はぁ…」
浅い呼吸がなつきの胸を何度も上下させた。
一番反応の大きかったソレを静留は唇で啄ばみ、含む。
「んん…っ」
高まる声をなつきは押し殺した。
手の甲に歯を立て、瞳を強く瞑る。
熱で火照った頬に汗が伝う。
「…あかんよ」
上目遣いで見咎めた静留が顔を上げた。
声を吸収するなつきの手を取り、口付ける。
「手、怪我するえ…」
ゆるりと肘を伸ばさせ、直立不動にさせるように静留はベッドに押し付けた。
「遠慮せんでええよ」
熱で潤んだ瞳を細め、なつきの胸に顔を埋める。
「うちしか、おらんさかい」
言って、膨らみを強く静留は吸う。
「はぁっ…」
甘い痛みがなつきの喉を詰まらせる。
酸素を求めるような荒い息づかいが静留の顔を上下に反芻させた。
身を捩じらせても静留の左手が許さない。
右手は左の膨らみを。
唇は右の膨らみを。
膝を割って滑り込んだ体は素肌を密着させ、柔らかい感触でなつきを追い詰めていく。
唯一、自由ななつきの左手が掻き集めるようにシーツを波立たせた。
胸の頂きや膨らみを存分に堪能した静留の唇がツイと下へと移動する。
右の掌が脇腹を探り、舌が窪みをチロリと舐める。
堪らずと言った感じでなつきが前髪を掻き上げた。
汗で滑った掌がそのまま枕の上に落ち、端を握り締める。
「くぅ…ん」
顰められた眉が痙攣し、赤い頬が更に紅潮した。
ソロリと内腿に静留は手を這わす。
ビクッと反射のようになつきの膝が曲がり足を閉じようとした。
だが、静留の体がそれを阻んだ。
逆に、隙の出来た膝裏を指先で撫で、足の付け根に唇を落とす。
「はっ…!」
なつきの背が大きく仰け反った。
浮いた腰に素早く腕を回し、静留は引き寄せる。
なつきの中心は既に潤っていて、物欲しそうな瞳を伏せて静留は顔を近づけた。
ペロッと味見する。
「う…あっ…ん」
一際大きくなつきが反応した。
唇を一舐めして、静留は吸い付く。
肉を直に刺激され、なつきの体が何度も痙攣する。
これ以上無く浅い息が紡がれ、喘ぎに口腔がカラカラに乾く。
なつきの熱と静留の唾液が交じり合いながらシーツを濡らした。
それでも静留の舌は、唇は止まない。
丁寧に。
丹念に。
熱を高ぶらせながらなつきの情を静留は口に含む。
「し、ず…」
限界と左右になつきが首を振った。
朦朧とした意識で左手が静留の頭を探す。
「…なつき」
口元を拭うと、静留は彷徨う手を取った。
体を起こし、なつきの頬に音を立ててキスを一つする。
「ここにいますえ」
首に腕を回させ、静留はなつきを抱き締めた。
「なつき…」
なつきの目蓋に唇を寄せ、右手を中心へと滑らせる。
傷つけないよう指の腹で擦ると、引き寄せるようになつきが腕に力を込めた。
その拍子に指が中へと滑り込む。
「あぁ――っ!」
自分で招き入れる形となったなつきが大きく喘いだ。
耳から背筋へ突き抜ける甘い声に堪らず、静留は首筋に歯を立てる。
そして、ゆっくり指を動かした。
中を蹂躙しながら意識を掻き乱す。
何も考えられないように混濁させ、自分の存在以外をなつきから追い出させる。
「なつき…うちを呼ん、で」
汗ばんだ肌を吸い付かせ、ねだる静留にゆらりとなつきが瞳を開けた。
潤んだ瞳がぼやけた世界で静留を捉える。
「静、留…」
クッと奥に静留が差し入れる。
「もっと、呼んでや」
頤を逸らすなつきの肩に頬を寄せ、やはり静留はねだった。
「静留…っ…しず…」
「…もっと」
夢現のように名を呼び続けるなつきに、静留が先を促す。
急くようで緩やかな指はポイントを擦りながら避けた。
「…留…し…ぁ」
勝手に動き出す腰に、唇を重ねて静留は指の動きを早める。
「っ…」
言葉どころか喘ぎにすらならない声が全て静留の口腔で受け止められた。
喉まで舌を差し入れながら、なつきの希望を望み以上に静留は叶える。
一気に上昇した熱はなつきを翻弄し、苦しいほど静留を抱き込む。
「―――っ!!」
甲高い声がなつきから上がった。
熱の中心がむせび泣く。
静留を抱き締めていた腕が力を失い、ベッドへ崩れ落ちる。
唇が離れ、冷たい銀糸は名残を惜しんだ。
見上げる虚ろな瞳が、そっと静留の頬を撫でる。
「静留…」
「…なつき」
弾む息を整えるなつきに張り付いた髪を静留は払う。
「愛してますえ」
瞳を細め、髪を一撫ですると静留は優しくなつきの額にキスをした。
ベッドに体を預け、なつきは額に手の甲を押し当てて大きく息を吐いた。
疲れきった体の中心はまだ痺れ、指は力が入らない。
「…だるい」
寝返りすら億劫な、なつきの髪を静留は優しく梳いて労う。
「堪忍なぁ。あまりに可愛いらしいから加減が利かへんどしたわぁ」
さらっと情の激しさを口にする静留に、なつきの顔が真っ赤に染まった。
だるい体で静留に背を向け枕を抱き込む。
「そういう事言うな」
枕へ顔を埋めるなつきに、くすりと静留は笑んだ。
「照れんでもええのに」
「照れてなんか、いない」
言う掌が枕の端を強く握る。
背を丸め、ベッドの端までもぞもぞと逃げるなつきに、静留はそっと指を伸ばした。
「な・つ・き」
背骨に沿って静留は指を直線に滑らす。
丸い背が一気に反った。
「静留!」
思わず向き直ったなつきを見計らうように軽く静留は唇を重ねる。
「そないに怒ると疲れた体にキツイおすえ?」
「し、静留のせいだろ!」
「望んだのはなつきどす」
「――っ!」
にっこり微笑む静留に真っ赤な顔が苦虫を噛み潰す。
反論を試みようと開いた口が乾いた汗で寒さを感じ、頭まで布団を引っ被った。
もそりと瞳だけ覗かせて静留を見据える。
「だ、大体…静留はネチッこいんだ…」
「そうどすか?」
起き上がり後ろ手を突いた静留は、長い髪を耳に掛けた。
「そうだ。先刻だって…その、そうじゃないか…」
もそもそ布団の中で動く体には沢山の情の痕が付いている。
見えるだけでもそこかしこと付いている痕は見えない部分にはどれ位付いているのか。
想像するだけで熟れたトマトが食べ頃前の青さに戻る。
「そないな事言わはれてもなぁ」
頬に掌を添えて心外そうに静留は言う。
「なつきから求めてくらはるチャンスなんて滅多にあらしませんし」
息を吐く静留になつきが目を見開く。
「あんな可愛いらしい姿を見せられ…」
「だーーっ!!」
うっとり指を絡める静留の語尾を掻き消した叫び声が布団を吹っ飛ばした。
「それ以上言うな!皆まで言うなっ!!」
両手で静留の顔下半分を押さえ込み、もういいとなつきは睨む。
鼻まで覆った掌を静留は指で突付く。
「なつき、ちょお苦しいんやけど…」
「う、煩い」
言いながらも、少しだけ手をずらしてなつきは鼻を解放した。
「…どうしてそんなに赤裸々なんだ。静留は」
溜め息交じりのなつきに、ゆるりと天井を見上げた視線が掌をぺろっと舐める。
「いっ!」
慌てて離すなつきの手を取って静留は一気に顔を寄せた。
「それは、なつきが可愛いらしいからどすえ」
吐息の距離で見つめる静留になつきの黒目が真ん中に寄る。
「照れはるなつきは、普段に増して可愛いらしいんどす」
ね?と首を傾いで口付ける静留に呆れた溜め息が落ちた。
「あのな…」
そんな事でアレやらソレやらを口にされてはたまったもんじゃないとなつきは静留の手を払う。
「大体私の事を可愛い可愛いって言うが」
隅で丸まったTシャツを見つけ、引き寄せる。
「静留の周りにはもっと可愛い子が沢山いるだろう?」
髪を靡かせ、横目で静留を窺ったなつきは直ぐに視線を逸らした。
「ファンクラブだって…あるじゃないか」
布団にポトンと両手を放って指を動かす。
力の入らなかった指がやっとグーを握れるまで回復した。
「…気にならはるん?」
その手に掌を重ねて、静留はなつきの瞳を覗く。
「べ、別にそういう訳じゃない!」
鼻息を荒らして、なつきは布団に潜った。
くすくす笑う声が一緒になって忍び込む。
肩を撫でる指先から視線を外し、枕の上で流れる髪を一房、なつきは指で摘んだ。
「ただ…静留の周りには人が集まる」
弄りながら惑う。
「特に静留が可愛いと言ってくれる私よりも可愛い子が、な」
それでも、なつきは続ける。
「なのに…何で私なんだ?…と思うんだ」
ぽとりと落ちた手が髪を流れに戻す。
吐露した心中に振り向かないまま、なつきはほぅと息を吐いた。
「あらー。妬きもちやいてくらはるんやねー」
「違う!」
さも嬉しそうな声が耳に届き、起き上がる勢いのままなつきは否定する。
なのに、俯く。
「…事も無いかもしれない…」
赤い頬を掻き、滑る髪を後ろへ払う。
「よく解らんが…もやもやするんだ。静留が他の子といると…」
胸中を迷わせる蟠りと憤りは灰色の煙のように不透明で。
「苛々して、不安になる」
何と言葉にすれば良いのか解らない。
これが俗に言う妬きもちという物なら、面倒な情だとなつきは思う。
「なつき」
ふわりとなつきを静留は抱き締めた。
「し、静留!?」
Tシャツ越しの感触は大変大きく、なつきが慌てて静留を押し返す。
「当たる!当たってる!!」
「何を今更言うてますのん」
もがき暴れるなつきに素肌を晒す静留の髪が肩をゆらりと流れる。
「あんなに求…」
「だからっ!」
勢いよく静留の口をなつきは掌で塞いだ。
「そういう事を口にするな!!」
肩を竦め、静留はその手をそっと取った。
「やっぱり照れはるなつきは可愛いらしいなぁ」
「照れてなんかいない!」
言うなつきの顔はこの上なく赤く、叫ぶ言葉は全く説得力が無い。
飄々と流す笑みが癪に障る。
「もういい!」
唇を尖らし、布団に潜り込むなつきにくすくす静留は笑う。
「そんな拗ねんでもええやないの」
「煩い!」
揶揄るような声はなつきだけに向けられていて、悔しい中で煙が晴れる。
気怠い体も、体中に残る痕もその想いを後押しした。
ぽつんとなつきが問う。
「…で。どうしてなんだ…?」
ゆるりと首を巡らし、静留をなつきは見つめた。
「どうして、私なんだ?」
真剣な瞳に微笑み、静留は膝まで布団を掛ける。
「なつきが玖我なつきだからどす」
「私が…私だから?」
眉間に皺を寄せて訝しむなつきに静留は頷く。
「なつきが言う通りうちの事を慕ってくらはる子は何人かいますえ」
瞳を伏せて事実をそのままに静留は言う。
「せやけど、それは硝子越しのうちを慕ってくらはってるだけなんどす」
「硝子越し?」
体も向けるなつきに、静留は部屋の隅のテレビを見た。
「画面上の芸能人を慕うのと同じって事どす」
外見や営業スマイルに惹かれて、中身は二の次。
相手が何を思い、どんな事を考えているのかは三の次。
「本当のうちを見たらあの子達、きっと幻滅しますえ」
「そんな事は…」
もそりと起きるなつきの続きを自分の唇で静留は塞ぐ。
「それはなつきやからそう思うんどす」
言って、ゆっくり抱き締める。
「うちの汚な部分も卑怯な部分も全部見て…感じて…なつきは知ってはる」
肩口に唇を寄せる静留に、なつきの肩が跳ねた。
「その上で好きやと言ってくらはる」
髪を撫で、ゆっくりなつきと瞳を合わせる。
「せやからうちにはなつきだけなんどす」
ね?と、首を傾いでもう一度静留はキスをした。
「だが…」
静留の白い肩に手を当て、なつきは指を滑らせる。
「本気で好きだと言う子だっているだろう?」
告白していた子は少なくとも静留の言うミーハーでは無かった。
「そういう子だって…沢山いるんじゃないのか?」
一瞬見えた涙は本気だったとなつきは思う。
「よぅ知ってはりますなぁ」
感心するような口調になつきの心臓がヤバイと警告した。
「い、いや!断じて現場を見た訳じゃないぞ!!」
ベッドに両手を突いてなつきは早口で捲くし立てる。
「噂だ!あくまで噂で聞いただけだからなっ!!」
必死で噂だと言い張るなつきに、くすりと静留は微笑んだ。
「そないに言わんでも解ってますえ」
ホッとなつきが安堵する。
「逆にあまり一生懸命やと見た事あらはるのか疑いたくなりますけどな」
「な、無い!本当に見た事無い!!」
ぶんぶん首を振るなつきにくすくす静留は更に笑う。
「…そういう子の」
ふと、笑いが止まった。
「そんな子の気持ちはうちも嬉しく思いますえ」
真剣な口調にこくんとなつきは息を飲む。
「でも、無理なんどす」
仰ぐように窓の外を見やって静留は続ける。
「うちの心にはもう何年も…ずっと焦がれていたお人がおるさかい」
遠い空のように見守って、夢みたいな想いを何年も流れる雲のように馳せた。
「そのお人以外は無理なんどす」
触れられる距離でそれすら叶わない切なさに嘆き悲しんだ。
それでも、想いは尽きなくて…
「うちにはなつきだけ」
やっと手にする事が出来た喜びは忘れられない。
「なつきだけなんどす」
するりとなつきの頬を静留は撫でた。
一生離す事など出来ない温もりは今は触れたい時に触れられる。
キスしたい時にキスが出来る。
「好きどすえ」
ゆるりと瞳を静留は細めた。
幸せで。
本当に幸せで。
胸が張り裂けそうな切なさはもう心に存在しなくて。
代わりにあるのは、言葉に出来ない感謝と眩暈がするような熱の情。
少しでも伝えようとなつきの頬に口付け、静留は引き寄せる。
「静留…」
静留の肩に額を寄せ、なつきは瞳を閉じた。
汗が渇いた肌なのに香る匂いは甘い。
首筋にそっと鼻をなつきは擦り付けた。
「これからも…告白されても、断るんだ…?」
「そうどす」
はっきり告げる静留に罪悪感が芽生える。
なのに、安心する。
「どんな、可愛い子でも…か?」
「どんな子でも」
「断るんだ…」
「断りますえ」
「少しも、手…出す気無いんだな」
「………。…ありまへん」
違和感になつきの片眉が上がった。
「今、間が無かったか?」
「…気のせいどす」
がばっと勢いよくなつきは顔を上げる。
「やっぱり間があるじゃないか!」
「嫌…やわぁ。なつきの気のせいやって」
言う静留の頬は珍しく微妙に引き攣り気味だ。
それをなつきは見逃さない。
「このっ!浮…っ…」
叫ばれそうになった不貞を静留はそっと人差し指で封じた。
「せぇへんよ。浮気なんて」
「…嘘つけ…」
尖った唇に口付けて静留は微笑む。
「ほんまどす」
頬へ、首筋へと唇を寄せて、静かになつきを静留は押し倒す。
「うちが好きなのはなつきだけどすえ」
ゆるりと鎖骨を指でなぞり、中心の窪みを舐める。
ピクッとなつきの背中が跳ねた。
背に這った腕が、触れるか触れないかの指先で背を撫で上げる。
「ん…」
息を詰める声に気づかれないよう静留は息を吐く。
「って、騙されんぞ!」
静留を跳ね除けてなつきは起き上がった。
そのまま逆に静留を押し倒す。
「な、なつき?」
上で馬乗りになって不敵に笑うなつきに静留は瞳を瞬かせた。
「静留は私の事好きなんだよな?」
「え、ええ…そうどす」
「私も静留が好きだ」
滅多に耳にしない想いを眼前で言われ、静留の頬が薄紅に染まる。
「だから全部、独り占めしたい」
すぅとなつきの瞳が細まった。
冷たく見える光は募った熱さを宿している。
「まだ見てない顔も…見たいし、聞いた事の無い声も…聞きたい」
夢のような想いを紡ぐ声に静留は息を飲んだ。
静留の頬を指先で撫で、顔の両端になつきは手を突く。
「静留…」
そっと唇を重ねる。
何時もされるように、
「私に見せてくれ…全部」
耳朶を唇で挟む。
「ちょ、ちょお待ってや!」
体を震わした静留は慌ててなつきの肩を押した。
「…何だ?」
お預けされた顔が不満そうに首を傾げる。
「なつきが…」
状況を信じられない瞳がなつきを指し、
「うち…を?」
静留を指す。
「…駄目か?」
「あ、あかんことない。ないけど…」
よもやなつきに組み敷かれる日が来るとは静留は想像もしなかった。
嬉しく無い訳では無いが困惑は隠せない。
「なつき…やり方、解るん?」
「大丈夫だ」
微笑み、安心させるように静留の頬に唇をなつきは寄せる。
「体が覚えてる」
耳朶の甘噛みと共に落とされた台詞は、なつきにしては大胆で、逆に静留を羞恥に晒した。
顳ク�C法�曚法¬楹犬法�r
なつきは静留を啄ばむ。
「お前の全てを…私にくれないか…?」
「なつき…」
睦言のように囁くなつきの首にゆらりと静留は腕を絡めた。
「あんたが…望むなら」
首をもたげキスをねだる。
「…ええよ…」
唇の熱さだけを信じて、ゆっくりと静留は瞳を伏せた。
夕暮れが差し掛かる生徒会室はシンと静まり返っていた。
役員会議は終わり残った生徒は誰もいない。
唯一人を除いて。
そしてもう一人。
生徒会の役員でもないのに出入りしている生徒が一人いた。
執行部のブラックリストNO1。
自ら生徒会に寄り付きそうにない経歴の持ち主であるなつきは、
唯一人残った役員、静留に呼ばれ訪れていた。
「静留、用って何だ?」
生徒会長の席の隣に立ち、なつきは腕を組んだ。
「なつき…」
茶を啜っていた静留がふっと息を吐いて立ち上がる。
対峙するように向かい合った静留の瞳にぎくりとなつきに緊張が走った。
「…どうしたんだ?」
思わずなつきは不安を覚える。
飄々とした風のような雰囲気を纏う静留が今は、
燃え尽きる前の灯火のような炎を揺らめかせていた。
追い詰められたような表情がやけに胸を突き、なつきは組んだ腕を解く。
「うちは…なつきが好きどす」
何度も聞いている台詞は、何時もと違う響きを携えている。
苦しそうな切ない声は、まるで本気だと言っているようで。
困惑したなつきは静留から顔を逸らした。
「そんなの、今更言わなくても解っ…」
「解ってへんよ」
苦笑して誤魔化そうとするなつきを静留は許さない。
「なつきは、何も解ってへん…」
ふらりと一歩静留が踏み出す。
「うちの…本当のうちを、あんたは知らん」
「静、留…?」
踏み出す静留に、一歩なつきは後ずさる。
「なぁ…気づいて、や」
ジリとなつきに静留は近づく。
「来、るな…」
ズッと静留からなつきは離れる。
静留が一歩進む度に、なつきは一歩退く。
何度も繰り返す。
それでもなつきに静留の真意は読めない。
理解出来ないままに背が壁に当たった。
振り返ると後が無い。
「なつき…」
それでも静留は歩みを止めなかった。
息が掛かりそうな距離で逃げ場所を失わせるように静留はなつきの両脇に手を突く。
「…好きどす」
揺らぐ瞳が本意を語る。
「静留…まさか…」
本気なのかと続けたいのに見据えられた瞳が声を奪う。
「…なつき、好きどす」
囁く静留の首がゆっくり傾ぐ。
唇が重なった。
「静、留…」
信じられないという思いで見つめるなつきから唇を離し、耳元に静留は寄せる。
「こん気持ち、もう止めれんのや」
ゆらりとなつきの頬を静留の指先が撫でた。
「どうにも…出来へん…」
ついと唇に触れる。
上唇から下唇からゆっくりなぞる。
「なぁ、なつき」
目を細め静留は笑んだ。
「うちを、受け入れてや…」
艶を含んだ囁きを耳元で落とされぞくりとなつきの背がそぞろ立つ。
「静…っ!」
強引に唇を塞がれ、なつきの喉が反った。
歯列を割られ舌を吸われる。
抗おうとする両手は難無く静留に絡み取られた。
「なつき…」
唇を離し、抱きしめて静留は囁く。
「…好きや」
首筋に顔を埋め、腕に力を込める。
「ほんまに好きなんや」
「静留…」
されるがままのなつきの腕が静留の背へと伸び、振り切るように戻る。
「…すまない」
唇を噛み、なつきは顔を背けた。
「私はお前の望みを…」
「…解ってます」
ゆっくり静留は顔を上げる。
想いを溢れさせた瞳が静かに微笑む。
「堪忍なぁ…」
零れた想いを拭い、静留はなつきから離れた。
「今の…忘れてや」
ゆらりと身を翻し、扉へと向かう。
「静留」
呼ばれ、静留は立ち止まった。
「…堪忍」
振り返らないまま静留はぽつんと言う。
「何も言わんといて…」
泣く背中を見つめるなつきの眉が悲しそうに歪む。
カラリと扉が開かれた。
「ほんまに…ごめんなぁ」
首を傾ぐように微笑み、静留は扉を閉める。
残されたなつきは黙って靴音が遠ざかるのを聞いた。
そっと唇を指でなぞり歯を立てる。
胸を焦がすような想いを忘れさせようとするように夕陽は静かに沈んでいった。
学園の端に建てられた茶室。
小さな庭園に囲まれた茶道の道は四季折々の草木を楽しめるように趣向が凝らしてある。
夏は紫陽花。秋は紅葉。冬は紅梅。
そして、春は桜。
朗らかな陽気に誘われるように障子窓を開放すると、太い幹を地に根付かせた桜が咲き誇っていた。
黄昏る枝が、風に花吹雪を散らす。
ひらりひらり。
舞う度に地面が薄紅に染まる。
「思い出しますなぁ」
桜を愛でつつ、静留は掌の茶器を回した。
香り豊かな苦味を舌の上で堪能する。
「あの春の日…」
言って、切なく笑む。
恋をしたあの春の日も桜が舞っていた。
風に流され、匂いに誘われたその先には出会いがあった。
「あの頃よりも柔らかになりはりましたが、根っこは今と同じ」
膝の上で茶器を両手で包み、静留は瞳を細める。
「意地っ張りで、照れ屋で…でも…」
腕を組んでそっぽを向く思い描いた人物にくすりと微笑む。
「強いどすなぁ」
強い光を宿す瞳は、太陽のそれと同じで、真っ直ぐに静留の心を射抜いた。
「うちなんかの邪まな想いさえ受け入れて」
全てを知っても変わらないその眼差しを羨ましくも愛しく静留は想う。
「今も、傍にいてくれはる…」
ゆるりと回る茶器は彼の人の温もりに近く、何時までも抱いていたい。
「負けっぱなしやね」
息を吐くように静留は微笑んだ。
「出会った瞬間から、祭りの終結まで」
忘れる事の出来ない唇の感触を求めて、指が茶器の口を辿る。
「うちは負けっぱなし…」
目覚めのキスは王子からでは無くお姫様からだった。
静留のチャイルドである清姫の死は、同時に己の死を、なつきの消滅を意味する。
だが、なつきは止めを刺した。
自らの手で、躊躇いも見せずに。
命すら捨てた応えに、共に逝ける事がどれほど幸せだったことか。
「こんな風に思ってるの知ったら、あんたは怒るんでっしゃろなぁ」
くすくす笑う静留に脳裏に浮かんだ一途な眼差しが馬鹿と叫ぶ。
「ほんに…」
視線を上げ、静留は桜を見上げた。
「あんたはこの桜のような人やね」
強く、潔く。
そして儚い。
「なぁ…なつき」
愛でるように囁く静留に、けたたましく躙口が開いた。
「静留!」
「な、つき…」
花びらで無く、本物の来訪に静留が頬を染める。
「匿ってくれ!!」
「え?」
礼を欠いたまま茶室へ体を滑らせ、なつきはけたたましく躙口を閉めた。
そのままわたわたと膝で走り、状況の解らない静留を盾にして身を隠す。
「どないしはったんどすか?そないに慌てて」
怯えた猫にのんびり静留は問いた。
「舞衣の奴が…」
全速力で走ってきたのか、なつきの息はかなり乱れている。
「鴇羽さん?」
きょとんと静留の首が傾ぐ。
「鴇羽さんが何ぞしたんどすか?」
「あいつ…」
静留の制服の襟を掴み、真剣になつきは訴える。
「私に、料理を教えようとするんだ…」
「あらぁー」
「一人暮らしなんだから御飯くらい作れないでどうするの!
不経済でしょ!?とか言ってあいつ無理やり…」
戦慄くなつきに、静留は楽しそうにパンと手を叩いた。
「ええ事やないの」
「良くない!」
即答するなつきに、茶器を静かに釜の手前へ静留は戻す。
「何で?なつきも女の子やさかい。料理覚えるのもええんちゃいますの?」
「静留は舞衣の恐ろしさを知らないからそう言うんだっ!!」
畳を叩いて断固反対するなつきを静留は不思議そうに見つめた。
「あいつはな…」
畳を千切るようになつきは拳を握る。
「…凄いスパルタなんだ…」
ぷっと静留が吹き出した。
「笑うな!本当にスパルタなんだぞ!!」
なつきが真剣になればなるほど静留の笑い声は高くなる。
「せ、せやかて…」
どうしても止まない笑いの虫に赤い顔でなつきは立ち上がった。
「もういい!邪魔したな」
身を翻して、茶室を後にしようとするなつきの手を静留は取る。
「まぁまぁ。そう怒らんと」
「静留が笑うからだろ!」
怒るなつきに静留の喉が震えを止めた。
「もう笑わんさかい。だから…な?」
ゆるりと手を引く静留に、渋々となつきは腰を降ろす。
「もう笑うなよ…」
「はいな」
釘を刺すなつきに静留は嬉しそうに笑んだ。
「でも、なつきの手料理うちは食べてみたかったわ」
「静留…」
残念と、溜め息をつく静留に俯いて、なつきは髪を後ろへと払った。
そして、真面目に問う。
「死ぬ気か?」
自分を知っているというべきか。
自分ぐらい味方してやれというべきか。
「言っておくが私は食べんぞ」
腕を組み、断言するなつきに静留の微笑が苦笑に変わる。
更に絶対にと付け足され、無言で静留は茶入れを取った。
蓋を開け、茶匙で豊かな緑を先刻まで使用していた茶器に移す。
「その話はまた今度にしましょか」
言って、鉄釜から掬った湯と共に静留は話しを流した。
ふん、となつきが肩を揺らす。
洗練された茶筌が小気味良い音を立てる。
「ここなら鴇羽さんもそう簡単には来ないでっしゃろ」
細かい泡が均等に立ち、豊かな香りに深みが増す。
「ゆっくりしてったらええよ」
のの字を描くように茶筌を止めた静留がなつきにお茶を薦める。
「あ、あぁ…」
作法を極めた物腰に、惑いながらなつきは茶器を取った。
見よう見まねで茶器を回す手つきは危なっかしい。
「そないに無理せんでもええんよ」
くすりと静留は微笑む。
「お茶は楽しく飲むもんやからな」
「そ…うか」
素直に回すのを止め、なつきは一気に茶器を傾けた。
喉を通る苦味に眉が顰まる。
「苦い」
「そういうもんや」
率直な感想にくすくす静留は静かな笑い声を上げた。
一口で根を上げたのか、茶器を横に置いてなつきは壁に持たれかかる。
窓からぼんやり空を見上げ、そよぐ風に前髪を騒がす。
舞う花びらは暢気で和らかだ。
脳裏を焦がす戦いの後はもう何一つ残っていない。
「…平和だな」
鳥の囀りに耳を傾けると、真昼の熱が見せた陽炎だったのかとなつきは思う。
だが、全ては現実で、忌まわしい宿命は二度と回らずとも、忘れる事も無い。
「あの頃を思い出すと今の方が幻のようだ」
切ない夢現な呟きに、すいと静留は立ち上がった。
空から目を離さないなつきの前で膝を折り、その視線の先を追う。
「…せやね」
迷い無い太陽の輝きは、一途で何者にも汚されない。
「せやけど」
月と運命の間に浮かんだ赤い星とは無縁の眩しさ。
痛い光に静留はなつきへと視線を戻す。
「あの戦いがあったから…」」
そっとなつきの頬に触れる。
柔らかい指の感触になつきがゆっくり静留を見つめた。
「解ったものも沢山あるんやで?」
人を想う気持ち。
人を傷つける痛み。
運命に抗う強さ。
そして、己自身の心。
「そうだな…」
ふっとなつきが笑む。
「きっと私達には必要だったんだろうさ」
言って、静留の手になつきは掌を重ねた。
「例えどんなに辛い戦いだったとしても…な」
「なつき…」
ゆっくり静留が顔を近づける。
なつきの髪がさらりと肩を流れた。
「って、何をする気だ!」
重なろうとした静留の唇をなつきは慌てて掌で覆った。
「…つれないわぁ…」
邪魔な掌を握り締め静留は呟く。
「あの時はなつきからしてくれたやないの」
たった一度だけ見せた情を言われ、なつきの頬が真っ赤に染まった。
「あ…あれは、お前を止める為に…」
「なつきはうちが嫌い?」
敬意を表するように。
なつきの手の甲に静留は唇を寄せる。
「…卑怯だぞ…」
指先よりも柔らかい触れ合いにぴくんとなつきの肩が跳ねた。
「そうや」
静留が瞳を細める。
「うちは卑怯者や」
言って、なつきの手首に静留は歯を立てた。
「それはなつきが一番知ってるやろ?」
「…っ!」
刺すような痛みになつきの顔が歪む。
「うちはなつきが好きどす」
瞳が心の真実を紡ぐ。
「せやから…」
なつきの顎に静留は指を掛けた。
静留の首がゆるりと傾ぐ。
「静…」
「会長さーん。なつき来てませ…ん」
躙口がカラッと開いた。
「…か…ぁ…」
逃げ込ませた張方人の出現に、静留の動きが止まった。
「舞、衣…」
追跡者の名をなつきは呟く。
「あ…え、と…」
惑う舞衣に、なつきは慌てて静留を押し返した。
「ご、誤解するなよ!これは静留が…!!」
なつきの弁明を聞きながら、舞衣は伺うように静留を見た。
無言の圧力に背がそぞろ立ち、
どう転んでも邪魔者にしか映らない立場を嫌というほどを自覚させられる。
「あ、あの会長さ…」
「…鴇羽さん」
ゆらりと静留は立ち上がった。
「うちのなつきに何ぞ用でもありました?」
『うちの』を強調する微笑みは瞳だけを笑わせない。
身震いした全身が、本能に従って逃げの一手を決め込む。
「ありません!ごめんなさい!!」
言い終わらないうちに、躙口が怒涛の勢いで閉まった。
「待て舞衣!」
伸ばされたなつきの腕に、躙口の木枠が空しい振動を響かせる。
静留となつきを隔絶し、一人外へと逃げた舞衣は躙口の前で胸を押さえた。
「こ、怖かった…」
一秒で一日分くらい鼓動が脈を打っている。
「本っ気で…怖かった」
寿命が三年は縮んだと舞衣は思う。
「どうした舞衣?」
真っ青な顔で荒い息を吐く舞衣の隣で命は首を傾げた。
「なつきも静留もいなかったのか?」
言って、躙口に手を掛ける命に舞衣は叫ぶ。
「命駄目!」
鋭い静止に命の肩が飛び上がる。
「舞、舞衣?」
「今その扉開けたらあんた…」
がっしりと肩を掴み、真剣な面持ちで舞衣は告げる。
「今度こそ確実に死ぬわよ」
死への忠告に命が息を飲む。
「そ、そうなのか…?」
神妙に頷く舞衣に冗談の気配は無い。
「良い?静かにここを離れるの。私は命を失いたくないわ」
「わ…解った…」
こくりと命は同意した。
息を殺し、草一つ踏むにも気を張り舞衣と命は茶室を離れる。
飛び石が消え、コンクリートで固められた道が程無く現れる。
立ち並ぶ校舎が近くなっても二人は言葉一つ交わさない。
校舎を抜け、中庭に出た所で、ようやっと舞衣が大きく息を吐いた。
「ここまで来れば大丈夫でしょ」
肩に入った緊張が解かれる。
「命。もう喋っても良いわよ」
「う、うむ…」
許しを得てもまだ命の眉は攣り上がったままだ。
強張ってしまった顔を両手でうにうにと命はマッサージする。
ほっと眉が緩む。
足音を発して、普通に歩き出す舞衣に命は連いて行く。
「なぁ舞衣」
優しい笑顔に戻った舞衣を命は見上げた。
「あの中に何があったのだ?」
ひくりと舞衣の頬が痙攣する。
純真無垢な瞳に何を、どう言えと、言うのだろうか。
「お願いだから何も聞かないで…」
頭を抱えるように舞衣は額を押さえた。
そして、代わりに疑問を口にする。
「それより命に聞きたい事があるんだけど」
「何だ?」
見上げる瞳に、躊躇いがちに舞衣は問う。
「戦いが終わって…。その、チャイルドは皆…もうここにはいないのよね?」
「その筈だ」
両の掌を命は広げた。
肌身離さず持っていたエレメントは、もう手元に無い。
兄と共に果てる事を選んだのを最後にこの世界から消えた。
再び持つ事も無いだろう。
「在るべき場所に帰った筈だ」
「そう…よね」
舞衣は空を見上げた。
消えていくカグツチは、最後にさよならと言う様に鳴いた。
空へ舞うように消える姿は美しく、切なかった。
もう会えぬ戦友に、寂しさが募る。
「それがどうかしたのか?」
「あ、ううん。何でも無いの。あたしの気のせいだから。…多分」
静留の後ろで揺らめいたチャイルド。
清姫の姿に何度も舞衣は気のせいと呟いた。
命が危うく開けそうになった死への扉の向こうでは静留が絶好調だった。
「鴇羽さんええ子やねー」
嬉しそうに静留は胸の前で手を合わせる。
「うちらに気ぃ使ってくれはるなんてー」
「あれは威圧したというんだっ!」
とんでもない勘違いに叫んでなつきは訂正した。
「人聞き悪い事言わんどいて下さい。うち何もしてはりませんえ?」
「あのな…」
怯えた舞衣の顔を思い出し、なつきは頭を抱える。
「それよりなつき」
すっと身を低くして静留はなつきの瞳を覗いた。
顎に指を掛け、上を向かせる。
「続き、しましょか」
「しなくて良い!」
迫り来る静留を押し返し、じりりとなつきは後ずさった。
「何でそないにつれないんどすか?うち、寂しいわぁ…」
目元を押さえ、泣くようにしだる静留にひくりとなつきの頬が引き攣る。
「静留…。お前絶対に性格変わっただろ…」
「あら。そんな事あらしまへんえ」
はっきり否定する静留を細まった瞳が、無言で否定する。
くすりと静留が笑んだ。
「ほんとは…ちゃんと解ってますえ」
すっと身を引き、静留は膝を正す。
「うちの好きと、なつきの好きが違う事」
背筋を伸ばし、はっきり静留は口にした。
「きちんと解ってます」
ひた隠しにした気持ちを知られ、力で己の物にしようとした壊れた想い。
その全てを許し、受け入れてくれたなつきの芯の強さ。
「ほんまはこうして傍にいてくれるだけで良いんどす」
もう近寄る事すら叶わないと思っていたのに、今でも頼りにしてくれる。
それだけで幸せだと静留は思う。
「せやけど…やっぱり気持ちは変えれないんどすなぁ」
静かに静留は桜を見つめた。
流れる風に桜吹雪が美しく舞い踊る。
「あの春に出会ったこの気持ちだけはどうしても捨てれないんどす」
胸が熱い。
「あんな目に合わせてもまだ…期待してしまうんや」
静まる事を知らぬように。
鼓動が逸る。
「何時かあんたがうちと同じ好きって気持ちを持ってくれんじゃないかて…」
傾ぐようになつきを静留は見た。
求めて止まない想いが笑みを浮かべる。
「期待してしまうんや」
ふわりと静留の瞳から雫が舞う。
「堪忍…な」
「静留…」
痛そうになつきの眉が顰まる。
膝の上で拳を握り、なつきは俯いた。
「一つ…聞いて、良いか…?」
ずっと抱えていた疑問。
過去の事だと言ってしまえばそれで終わる。
あえて掘り返す必要も無い。
だが、忘れるには重過ぎる有り得たもう一つの結末をなつきは恐る恐る口にした。
「あの教会で、静留は…私を自分の物にしようとした」
恨まれても手に入れると告げられた最期の決戦。
向かって来る傷ついた瞳は他の方法を見出せなくて、もがき苦しんでいた。
「エレメントで動きを封じ、静留は私を…抱き締めた…」
無理やり奪おうとしているくせに、その腕に込められた力は儚く泣いていた。
「…せやね」
罪を認めるように静留が瞳を伏せる。
「あの時、静留はどうするつもりだったんだ…?」
顔を上げ、静留をなつきは見据えた。
「本当はどうしたかったんだ?」
責めるでなく、ただ問うなつきに静留は膝の上で手を揃える。
「答えてくれ。静留」
繰り返すなつきに瞳を閉じ、礼を持って静留は答えた。
「解りません」
「静留!」
ふわりと静留は微笑んだ。
「ほんとに解らないんよ」
制服の襟をなぞるように静留は言う。
「うちの気持ちを受け入れてくれないなつきを殺したかったのか、それとも殺されたかったのか…」
己すら失わせた狂気の答えは今も闇に隠れたままで、思い返しても欠片すら見つからない。
「…もしかしたら」
なつきから目を逸らし静留は自嘲する。
「共に逝きたかっただけなのかもしれまへんなぁ…」
ならば、内なる望みは叶っていたのかもしれない。
否。
叶っていたのだろう。
何も残らない戦いの中で知りたい想いを知れたのだから…。
「ただあの時は、どんな手段を用いてもなつきをうちの物にする」
遠い夜空を見つめるように瞳が愁う。
「それしか考えられなかったんよ」
堪忍と囁く危うい光が、過去を悔いる。
瞳の中でちかちかと際どさが点滅した。
チャイルドの強さは想いの強さ。
清姫の強さを思い出せば、偽りが混じっていない事は明白だ。
「……だけ…」
だからこそ、慰めなどなつきは言えない。
「キスだけだぞ!」
顔を上げ、今の気持ちだけを一息に告げる。
「なつ、き…」
静留の目が瞬いた。
他人には情を見せない頬がなつきにだけ想いを表す。
「ほんまに、ええの…?」
恥らう静留になつきは何故か安堵を覚えた。
「あぁ…」
肩の力が抜け、心が楽になる。
「私は静留が好きだ」
素直に思いが伝えられる。
不思議な静けさに、壊れた教会で対峙した時をなつきは思い出した。
「私の好きが静留と違う意味だとしても」
気持ちは思うだけでは伝わらない。
「大切に想う気持ちは一緒だ」
言葉にして、行動にして初めて伝えられる。
染まった頬が愛しい。
ゆっくりと。
でも軽く。
唇をなつきは寄せた。
「だろ?」
間近で微笑むなつきに、朱色の頬が更に赤く染まる。
「なつき…」
ゆっくりとなつきを静留は抱き締めた。
肩に額を預け、泣き疲れた子供のように甘える。
「…好きどすえ」
静留の背をゆるりとなつきは擦る。
「私も…静留が好きだ」
紡がれる思いは決して交わる事は無い。
でも、同じ想い。
ゆっくり静留は体を離した。
薄れる温もりの代わりになつきの頬に静留は触れる。
ふわりとした幸せが綻ぶ。
「なつき…」
異なる想いの重なる熱を分かち合おうと静留はなつきに顔を寄せた。
額に触れた静留の前髪になつきがゆっくり瞳を閉じる。
そして…
「っ…!待て静留!」
押し返した。
「なつき…」
寸での所で、止められた静留の瞳が切なく揺れる。
「やっぱり…嫌、どすか?」
「ち、違う!そうじゃないっ!!」
俯く静留になつきは慌てて首を振る。
「その…するまえに一つ言っておきたい事があるんだ…」
「言っておきたい事?」
こほんと咳払いを一つ落とし、なつきは赤らんだ顔で言う。
「その、普通にしろ…よ」
普通。
一般的で、でも基準の無い曖昧な表現に静留は首を傾げた。
「どういう意味どす?」
「その…何というか…。静留、何か凄い事しそうだから…」
自分や仲間に行われた静留の経歴と手腕を思い、なつきは視線を逸らす。
「嫌やわぁ」
くすりと静留が笑んだ。
「うちがそないな事する訳あらしまへんやないの」
「…天然のテクニシャンが何を言ってる…?」
口元を押さえコロコロ笑う静留に冷たい瞳が呟く。
「それより…」
ふと、笑うのを止め、静留はなつきの手を取った。
真剣な面持ちで近づく顔になつきの鼓動が一際大きく跳ねる。
「静…」
名を呼ぼうとする唇を静留の人差し指が制した。
「もう…お喋りは無しや…」
ゆらりと静留の首が傾ぐ。
吐息が触れ合う。
瞳を強くなつきは閉じた。
柔らかな感触。
一度だけ覚えのある唇に、なつきは畳に爪を立てた。
軽く重なった唇が静かに離れる。
ゆっくりと、名残を惜しみながら。
遠のいた息に、なつきが瞳を開ける。
間近でぼやける静留の頬は、薄紅色をしていた。
熱が移ったのか、なつきの頬も染まる。
「あまり見るな…」
俯き、なつきは顔を隠す。
こくりと静留は息を飲んだ。
突き上がる衝動が先を求め、急く。
キリっと唇を噛む。
強く抱き締め、情を無理やり殺す。
「痛っ…」
きつい抱擁にそっとなつきは顔を上げた。
瞳が出会う。
カチッと静留の歯が鳴った。
なつきの両頬を掌が包み、上を向かせる。
「しず…っ」
三度目の感触が強引になつきの中へと割り込んだ。
無理やり上げられた顎が呼吸を圧迫する。
畳に爪が引っ掻き傷を作った。
指先が痺れ、体の力が奪われていく。
堪らず、静留の背中をなつきは叩いた。
我に返ったように静留が唇を緩める。
震える足腰になつきは壁に背中を預けた。
「キ、スだけだって…」
「キスや」
静留の手の甲がなつきの頬をゆるりと撫でる。
「キスしか、してまへんえ…」
荒い息をする肩を静留の頬が慈しむ。
焦点の合わない瞳を、白い首筋が誘う。
断れない唇が躍動を吸った。
「…っ!」
震えた体になつきは壁に背を打ちつける。
倒れそうになり、畳に手を突く、なつきの肩のラインを静留の掌が辿った。
「ごめんなぁ」
なつきの胸の膨らみを静留は包む。
「そないな顔、見せられたら…」
ゆらりと静留が揺れた。
「うち…」
持ち上げるように膨らみを押し上げる。
びくっとなつきの体が跳ねた。
「ん…ふ…ぁ」
上がりそうな声をなつきは両手で覆う。
「やっぱりうちは…」
隙の出来た脇腹に静留は手を侵入させた。
そろりと撫で上げられ、なつきの体が竦む。
「静…やめ…」
縋るように腕を掴もうとするなつきの腕を逆に掴み、そのまま静留は押し倒した。
「…なつき」
ふわりとなつきの頬に触れる。
「キスしか…せぇへん、から」
言って、なつきの両手首を静留は畳に押し付けた。
「静留!」
もがいても拘束は緩まない。
耳朶を食む唇がちろりと首筋を舐め上げる。
敏感な部分を的確に捉えられる度になつきの体が反応を示す。
知り尽くされた体が記憶をフラッシュバックさせた。
名を呼ぶ紅潮した頬。
透き通るような肌と赤い唇。
熱を持て余す潤んだ瞳。
うたた寝した縁側で夢見た静留になつきが身震いを起こす。
「やめてくれ!」
腕を振り解き、ブレザーに掛かる手になつきは爪を立てた。
「…なつき」
手の甲に出来た赤い筋が静留を止める。
「頼むから…もう…」
ゆっくりと静留は拘束を緩めた。
「なつき…」
頬を撫でようとした手が躊躇い、握る。
「なつき、なつき…なつ、き…」
何度も切ない声がなつきを呼ぶ。
弱々しい声に縋る想いだけが木霊する。
「静、留」
ぽつりとなつきが呼んだ。
ゆっくり静留が顔を上げる。
見つめる瞳はなつきが思い描いたソレとは異なっていた。
情に孕んだ熱が泣いている。
透き通るような肌は欲を堪え、噛まれた唇に血が滲む。
悦を求めるというより苦しんでいる。
消す事の出来ない燻りをぎりぎりまで捻じ伏せ、それでも求めて止まない気持ち。
泣きながら向かって来た最期のように己と戦い続けている。
「馬鹿だな…」
くすりとなつきが笑んだ。
顔に掛かる髪を指で除き、なつきは静留の頬を両手で包む。
「静留は馬鹿だ」
そっと胸元になつきは静留を引き寄せた。
「そして私も…」
馬鹿だと苦笑する。
「もう、苦しまなくて良いのに…」
静留を抱き、なつきは瞳を閉じた。
「そんな顔、もう…しなくて良いんだ」
後ろ髪に手を差し込み、キスをする。
「なつき…」
ゆるりと顔を上げた静留の頬に口付ける。
「これ以上自分を殺すのは止めよう…静留」
瞼にキスをしてなつきは微笑む。
「お前も…そして…私も…」
「…なつき」
顔を寄せるなつきに、何も言わずに静留は唇を重ねた。
強引で無く、遠慮するように静留の舌がなつきの歯列をノックする。
薄く開いた扉が優しく招き入れた。
チュッと音が立つ。
絡み付く来客はツボを心得ていた。
探るように徘徊し、一瞬の反応すら見逃さない。
朧気になる意識の中で、何所で覚えて来たのかなつきはほんのり気になる。
だが、その疑問も唾液と共に飲み下された。
ブレザーの上からゆらゆら静留が体のラインを辿る。
胸から腰へ、腰から背中へ。
ゆっくりなつきを確かめる。
首元を指先が薄い線を引き、静かにブレザーを脱がす。
中に着ていたパーカーは見た目よりも薄手で、先刻よりも熱が肌に伝わる。
熱い。
裾から手を差し込まれると、その熱は更に温度を増した。
ちりりとなつきの胸が焦げる。
これほどの熱をどれだけの間、持て余していたのか。
返す術の無い自分をどんなに想ってくれているのか。
悲しくなる位、熱が静留の情を教える。
すいと静留が身を屈めた。
パーカーを擦り上げ、露にした肌に口付ける。
そのまま上へ上へと滑る舌先になつきが肩を強張らす。
胸の膨らみを覆う布は、淡い空と同じ色をしていた。
「これ…」
「…静留?」
ふと、手を休めた静留に、薄っすらとなつきが瞳を開ける。
「先日…一緒に買い物に行った時のやね」
嬉しそうな笑みが静留に浮かぶ。
「うちが選んだの、着けてくれてはる…」
深い意味がありそうな物言いに、なつきは顔を真っ赤に染めた。
「静留!」
慌ててパーカーを降ろそうとしても静留が邪魔で降ろせない。
「嬉しい…」
くすりと笑って、静留は掌に収めた。
上の隙間から指を滑り込ませ、柔らかい感触に肌を吸い付かせる。
「っ…ん」
口元を手で覆い辛うじて声を殺すなつきを追い込むように静留は背へと手を回した。
プツッと音がし、空が浮く。
「あの桜と…同い色やね」
囁いて、唇で静留は桜を食んだ。
弾力のある食感をぞろりと舌が舐め上げる。
感覚を直に触れられ、大きくなつきの体が跳ねた。
堪えるように静留の頭を抱え込む。
「し…っ…る…」
荒い息が絶え間なく吐かれる。
知り尽くされた弱点。
巧みな愛撫。
どこをどう攻めれば、どんな反応が返ってくるのか。
全てを把握する動きがなつきを翻弄する。
惑わせ、焦らせ、喘がせる。
すっと静留が身を引いた。
「はぁ…」
静けさを取り戻した波に、なつきは額を押さえ、畳に体を転がす。
ぷちっと釦を外す音が聞こえた。
軽く上半身を起こしたなつきに、リボンがぽとりと落ちる。
ブレザーを脱ぐ静留に、ぎくりとなつきの顔が強張った。
頭で解っていても、未経験の恐怖がどうしても腰を引かせる。
構わず、開襟シャツをはだけさせた静留になつきは息を飲む。
「ま、待て…静留。それは、その…心の準備が…」
じりりと後ずさるなつきに静留の眉が拒む。
「待てまへん…。だって、なつきが…言うたんよ?」
壁に追い詰め、静留はなつきの頬に触れた。
「もう自分を殺すなって…」
言って、唇を重ね、吸い上げる。
「く…ぅ…ん」
強く抱き締め、が肌を密着させる。
体の中で鼓動が反響する。
「暖かいどすなぁ…なつきは」
なつきの胸に擦り寄り静留は歯を立てた。
柔らかい唇が桜の突起を転がす。
「…っ…」
力の入らない指先が静留の髪に絡み、そして解けた。
「…なつき。ええ、どすか…?」
「良いって…何が…?」
高ぶった熱の呆けた問いに、するりとなつきの太腿を静留は撫でた。
察したなつきから一気に熱が引く。
「ええどす…か?」
「そ、それは…」
先の行為を求める静留になつきは視線を逸らした。
静留を抱く腕が震え、惑う。
嫌だと言えば静留は止める。
だが、その後は?
また焼ける熱を涼しい微笑で隠す静留を放って置くのか。
壊れるまで自分を殺し続けたあの時のように。
何もしないまま二度も見届けられるほどなつきは愚かでは無い。
それでも、動けないのはどうしても超えられない線があるからで…。
困惑になつきの表情が歪む。
「堪忍」
「え?」
弾けるように顔を上げるなつきから静留は離れた。
「冗談のつもりで聞いただけやから」
言って、なつきのパーカーを手早く下げ、肌を隠す。
「ちょっと度が過ぎましたなぁ」
正座し、もう一度堪忍と謝る静留になつきは声を上げた。
「静留、私は…!」
先を静留の人差し指がそっと制す。
「何も言わんでええよ。うちが悪ノリしただけどす」
襟元を合わせ、傾ぐように微笑む静留の瞳はまだ熱に潤んでいる。
熱く燃える篝火のような瞳。
己を燃やしながら周りを照らし導く。
導いてくれたのは誰?
照らし続けたのは誰?
「そろそろお日ぃさんも沈み始めたさかい」
プツリと静留がシャツの釦を留める。
「早ぉ帰らんと門も閉じてしまいますしな」
障子窓を閉める静留が閂を降ろす。
「いざとなれば隣の部屋に布団はありますけど…」
休憩用と称したサボリ場所を見つめ、静留は笑む。
「一組しかあらしまへんから」
誘うで無く、問うでも無く、事実だけが告げられる。
「帰りましょか」
畳の上で伸び切ったリボンをシャツの上で結び、静留はなつきのブレザーを取った。
「なつき?」
帰り支度を整えた静留に対して、俯いたままのなつきは身動き一つしない。
顔すら見ようとしない人形のようななつきに静留は瞳を伏せた。
最後の一線は歯を食い縛ったものの、その直前まで止めれなかった。
無言で責められているようで、静留が痛みに顔を逸らす。
「うち…先に帰りますに…」
膝の上でブレザーを畳み、なつきの前へ静かに置く。
「なつきも早ぉ帰ってな…」
自分のブレザーを腕に掛け、ゆらりと静留は立ち上がった。
置き去りにする事に惑いながらなつきに背を向ける。
「静留」
涙を握り潰す手が掴まれた。
びくっと静留が身を震わせる。
ゆっくり振り返ると強い光を放つ瞳が見つめていた。
愛しい瞳。
沈む太陽よりも輝く光。
それが、強い意志で静留を責める。
「静留」
ちょいちょいと指で招かれ、へたれ込むように静留は座った。
「言っただろう?」
両手で静留の頬を包み、なつきは見据える。
「そんな顔しなくて良いって」
言って、ぼんやりと見返す静留を抱き締め、なつきは言う。
「もう、良いから」
「せ、せやかて…」
惑う静留の唇に人差し指をなつきは添えた。
「お喋りはもう、無し…なんだろ?」
言って、ちゅっと静留の頬になつきは音を立てた。
一瞬の感触に静留の頬が薄紅に染まる。
「…なつき…」
なつきを静留は抱き締めた。
強く。
思いを込めて。
ゆっくりとなつきが静留の背に腕を回す。
抱き寄せ、瞳を閉じる。
深く唇が合わさった。
舌が絡み、息すら忘れて熱を分かつ。
唇が離れても惜しむ糸が二人を離さない。
噛むように首筋へ口付ける静留に、きりっとなつきが歯を食い縛る。
縋れば縋るほど疑念が沸く。
「…っ」
途切れがちになる意識の中でなつきは静留を見た。
行為に勤しむ顔は時折切なく歪む。
気づいているのだとなつきは思う。
間違いなのかもしれない事に…。
異なる想いで体を重ねる。
他人が見れば過ちと言うのだろう。
太腿を探る静留に、なつきは首を横に振る。
「なつき…?」
弾む息が、様子に気づいたのか顔を上げた。
熱に潤んだ瞳に翳が落ちる。
なつき微笑む。
「…何でも無い」
言って、なつきは静留のリボンに手を掛けた。
シュルリと解き、邪魔というように横へと投げる。
舞うようにリボンが落ちた。
シャツの釦を一つ、二つと外し、首筋へと手を差し入れなつきは静留を引き寄せる。
「続けよう…」
求められ、首筋に静留は舌を這わす。
緩慢な動作が、徐々に速さを増していく。
「ふ…ぁ…」
堪らず上がる声が自身を追い詰める。
太腿の付け根を探る静留の掌がゆらゆらと中心を目指す。
「ぁ…っ!」
初めて感じる自分の中の他人に、なつきから涙が溢れた。
蠢く指に感覚が霞みと光を繰り返す。
違和感と恐怖感と…安心感。
間違っていない。
間違いなどある筈がない。
この行為が過ちだと言うなら、胸に浮かぶ安堵感は何だと言うのか。
「静、留…」
汗ばんだ頬を探り、キスをなつきはねだった。
もっと安心出来るように。
この安堵を渡せるように。
深く願う。
意識が混濁する。
競り上がる中心が輝きを放つ。
意識を手放しても傍にいれるようにと、静留の手をなつきは一度も離さなかった。
「絶対に左だよ!」
言って、左腕で半円を描き、まことは一人の人物を指した。
「何言ってるのよ!右よっ!」
言う美奈子の右腕が、空を切るように一人の男性を示す。
往来のど真ん中。
行き交う人々の好奇の視線を物ともせずに、睨み合う並んだ二本の腕の先には
見知らぬ男性が二人、並んで歩いている。
「左!」
「右よっ!!」
譲る気の無い両者の単語だけが間を飛び交う。
そんな二人から数メートル離れた場所で、困ったような苦笑を零す亜美と、組んだ腕を指でとんとん叩くレイが傍観していた。
業を煮やしたまことが地団太を踏んだ。
「あーーもう!何でそんなに頑固なんだよ!」
「頑固なのはまこちゃんでしょ!私は本当の事を言ってるだけよ」
ふんと鼻を鳴らして美奈子は背を向ける。
それが余計に苛立ちをまことに募らせた。
「絶対に左の方が格好良かったってば!」
「いーえ!右の方がスマートで素敵だったわ!!」
十人十色の美的感覚。
決着が着く訳の無い不毛な戦いにまことは民主主義に問う。
「じゃあ他の人の意見を聞こうよ。そうすればどっちが正しいか解るだろ」
「望むところよ」
勝ったも同然と美奈子はせせら笑う。
美奈子とまことは同時に亜美を見た。
「え?」
四つの眼に見つめられ、挙動不審に亜美は二人を見比べる。
「亜美ちゃんどっちが格好良かったと思う?」
「当然右よね?」
鬼気迫るまことと余裕たっぷりの美奈子に詰め寄られ亜美はそそと半歩後ずさった。
「え、えと…。擦れ違っただけだし…顔…良く見て無かったわ…」
ごめんなさいと言葉を濁して亜美は逃げる。
「そっか…」
「じゃあしょうがないわね」
然程恋愛に積極的でない亜美の性格を熟知している美奈子とまことはあっさり引き下がった。
そして、次に標的を移す。
「じゃあレイちゃんはどっちが格好良かったと思う?」
「右よね右!」
覗き込むように顔を近づけるまことと強要に近い声で叫ぶ美奈子の挑戦に憮然とレイは告げた。
「30点」
意外な答えにぽかんと美奈子とまことがレイを見つめる。
「へ?」
「30点?」
解らないと顔に書く二人に、腕を組み直してレイは言う。
「どっちもどっちって事よ。さ、行きましょう亜美ちゃん」
亜美の手を取って悠然とレイは二人の前を横切った。
レイの動きに合わせてまことと美奈子の首が左から右へと動く。
「ちょ、ちょっと待ったレイちゃん」
我に返ったまことは慌ててレイを呼び止めた。
肩を掴むまことにゆっくりレイは振り返る。
「何よ。文句でもあるの?」
ガンと見据える瞳。
自分よりも身長が低いレイに見下ろされ、まことの両手が降参した。
「…無いです…」
ホールドアップした苦笑いが角張った動作で首を横に振る。
「そ。無駄な時間食っちゃったわね。早く行きましょ」
言って、先を行くレイにまことは勿論、美奈子も見送る事しか出来なかった。
サァと川のせせらぎのような音が、街路樹を濡らす。
ここ数日続いた星の雨も今日は本当の雨に出番を明け渡していた。
「ちぇ。今日は星見えないな」
緑の傘をくるくる回し、まことは空を見上げる。
落ちてくる水の束に気が滅入る。
足元を照らす街灯に言われ水溜りをまことは避けた。
くるりと傘を回すと水滴が飛び、光を乱反射させる。
水の雨が一瞬、光の雨へと変わり、少し楽しくまことは思う。
「…こういうのも良いかな…」
はしゃぐ子供のようにくるくる傘を回し、まことは笑った。
帰路に着いていた足の向きを90度変える。
「寄り道してこっと」
軽い足取りで最寄の公園へ向かう。
公園の名が刻まれた標木を見ながら足を踏み入れる。
中央で立ち止まりゆっくり周りを見回す。
濡れたブランコや佇む滑り台に懐かしさを感じる。
ベンチに座って暫く眺めてみたいと思いつつも、ニスを塗ったようなテカリ具合にまことは苦笑した。
「どこか雨宿り出来る場所無いかな」
そのまま帰るのは勿体無い気がしてまことは公園内を見回す。
「あれ?」
ふと、公園の隅に人影をまことは見つけた。
すらりとしたプロポーション。
長い髪の独特な色合い。
覚えがあったまことが名を呼んで駆け寄る。
「美奈子ちゃん」
「…まこちゃん」
美奈子の肩に掛かる傘は不自然に斜めでその機能を殆ど果たしていない。
そっとまことが自分の傘に美奈子を招く。
「こんな所で何してんだよ。傘もちゃんと差さないと…」
言って、美奈子が何かを抱いている事にまことは気づいた。
「その子…」
こくりと頷き美奈子は腕の中の白い毛を撫でる。
泥と雨に濡れた毛は弾力を失い、所々赤黒く染まっていた。
丸く綺麗な瞳をしているであろう双眸は閉じたままで開かない。
「先刻、そこで見つけたの。せめて埋めてあげようと思って…」
悲しい笑みにそっとまことは美奈子の腕で眠る頭を撫でた。
「そっか…」
暖かく無いのに、冷たいとも言えない温度。
何とも寂しい温もりだとまことは思う。
「あっちなら多分埋めれる場所があるよ」
言って、案内するまことに無言で美奈子は連いて行く。
人が踏み込んでいない鬱蒼とした茂みを掻き分け、まことは土の柔らかそうな場所を探す。
雨が幸いと言うべきだろうか。
じっとり濡れた土は踏むだけで微かに沈んだ。
「ここなら誰かに踏まれる事も無いよね」
「そうね…」
言って、その場に美奈子はしゃがんだ。
辺りに転がる石を一つ掴んで地面を掘り出す。
その隣でしゃがんだまこともまた、適当な木切れで土を掘った。
何も語らず、何も聞かずまことと美奈子は穴を作る。
美奈子の膝の上で眠る小さな体が一段と小さくまことには見えた。
数十分も経つと大きな穴が一つ地に穿たれる。
その中に体積を失った体をまことと美奈子が預ける。
ずっと無言のままの美奈子に、もしかしたら最期を見届けたのかもしれないとまことは思う。
土を掛け、近くの木から一本枝を拝借すると標のようにまことは立てた。
そっと美奈子が手を合わせる。
まこともまた手を合わせて瞳を閉じる。
幼いまま失われた小さな灯火。
大きな未来が待っていただろう。
運命と言ってしまえばそれまでかもしれない。
だが、その言葉の重みをまことは嫌というほど知っている。
だから、まことは祈る。
次の命が幸せであるようにと、静かに祈りを捧げた。
「どうしてかしらね…」
ぽつりと聞こえた呟きにまことは瞳を開けた。
「…慣れないわ」
街灯のせいなのか、美奈子の顔が翳る。
「昔から…それこそ数え切れない程、死を見てきてるのにどうしても慣れないわ…」
美奈子の手が切なく土を撫でる。
敵の絶命。
味方の最期。
前世から戦いに投じてきたその身は灯火の消える瞬間を多く見届けてきた。
なのに、一向に平気にならない。
心が寂しさに埋め尽くされ、泣く事も出来ずに立ち尽くす。
「何度も経験してるのにどうしてかしら…」
寂しい微笑にまことは合わせた手を離した。
「それは…美奈子ちゃんがヴィーナスだからだよ」
ゆっくり美奈子を見つめる。
「美奈子ちゃんは…慈しむ者だから…」
生命を慈しみ愛す存在。
抱きしめ、包み込む象徴。
その星を持つ者が抗えない悲しみに慣れる日など来るとはまことには思えない。
「慣れる日なんて来ないよ」
言って、美奈子の頬をまことは撫でた。
「慣れなくても…良いんだよ…」
すんと鼻を鳴らすまことの手を取って美奈子は瞳を閉じる。
「それは…まこちゃんも同じでしょ…」
生命を育む存在。
風となり大地となり見守る。
その星を受け継ぐ者が絶えがたい寂しさに胸を痛めない日など来ないと美奈子は思う。
「ねぇ…」
まことの掌にそっと美奈子は口付ける。
「私が死んでも…悲しんでくれる…?」
ぴくんと掌が震えた。
きりりと唇を噛む音に、酷い事を聞いてると美奈子は自嘲する。
「まさか」
まことが一笑した。
立ち上がるまことに、するりと掌が美奈子を置き去りにする。
「あたしより先に死んだら絶対に許さない」
怒気さえ含む強い口調。
街灯を逆光に受けるまことの顔は見えない。
掌が強く握り締められ震える。
泣いていると美奈子は思う。
「…そうね」
ゆっくり美奈子は立ち上がった。
風に靡く墓標に目を細め微笑を浮かべる。
「私もよ…」
慈しみと育みに見守れながら小さな墓の小さな骸が自然へと帰った。
「さよなら」
重い銃の引き金を優しい微笑みが軽く引いた。
轟音が轟く。
今まで人と呼ばれていた肉が眉間に一つの穴を残してただの塊と化す。
銃口から紫煙が立ち昇る。
マドラックスは動かない。
塊に銃口を向け続ける。
最期を見届けても最後まで気を抜かない。
闇の世界で生き抜く為の鉄則は、マドラックスの体に染み付いていた。
何も考えなくても良い。
体に任せれば習性が身を守ってくれる。
1分程そうしていただろうか。
微動だにしない塊にゆっくりと銃が下ろされた。
オーストリア製のオートマティック銃。
グロック・モデル17の装弾数は17発。
残弾は16発。
安全装置が掛けられる。
ホルスターに戻された銃が一番マドラックスの腕を知っていた。
「…暑いわ」
仕事を終えたマドラックスの長髪がゆらりと風に舞う。
エージェントという激しい仕事をしなやかなブロンドの髪は感じさせない。
手櫛で乱れがすらりと直る。
着崩れしたダークグリーンのジャンパーを正し、マドラックスは空を見上げた。
今にも泣き出しそうな空は、湿度だけを先に下ろしている。
しつこく纏わり付いてマドラックスを離さない。
赤いインナーシャツの首元をマドラックスは引いた。
「お風呂入りたいな…」
肉の塊よりも明るい空は果てまで続いている。
マドラックスの額を汗が拭う。
風が凪いだ。
「―――っ!」
刹那の動きでマドラックスが反応した。
同時にホルスターの銃が開放される。
「誰?」
銃口が辺りを探る。
誰もいない。
誰かいる。
姿は見えない。
見られている。
周囲を見回すマドラックスの視線が、微弱な気配を辿って泣き始めた空を移す。
頬に雫が当たった。
ぽつぽつと増える涙がマドラックスを濡らす。
ほぅとマドラックスは息を吐いた。
「…帰ろ」
見切りをつけるように銃が下ろされる。
雲の涙で張り付いた前髪を振り払い歩き出す。
「あ、そうだ」
ふと、マドラックスが顔を上げた。
「御飯、何食べよう」
肉の塊の横で足が止まる。
ジャンパーが雲の涙にじわりと濡れ、硝煙が掻き消される。
「でも、お風呂が先かな。うんお風呂」
普通の非日常で当たり前の日常を思う血に慣れた手は肉の塊を振り返る事無く歩き出した。
スプリングの効いた広いベッドの上で古ぼけた絵本が音も無く捲られる。
古びた表紙の絵本。
中には、勾玉とも胎児とも取れる絵が3つ並んでいた。
不可解な絵の下には四大文明のどれにも属さない古代文字。
空白を嫌うようにびっしり文字が本を埋め尽くしている。
数箇所に渡りページが失われた絵本は、それだけで本と呼ぶに値しない。
その上、不可解な絵と古代文字で生成された時代すら覚束無い本。
持ち主である17歳のマーガレットには到底読めるとは思えなかった。
それでも、愛しそうにページが捲られる。
ベッドに寝そべり、雑誌を読むようにページが捲られる。
「どうしてだろう…」
ぽつりとマーガレットが呟いた。
「どうして好きなんだろう…」
読めない古代文字は心が安らぐ。
黴臭い中で微かに感じる匂いは懐かしい。
勾玉のような胎児の絵は何かを思い出させる。
それは過去なのか未来なのか。
それとも本当の現実なのか。
「此処は…何処なんだろう…」
平和な日常の裏側は混沌としていて思考さえも闇に隠す。
ぼんやりしたマーガレットの瞳が見開かれた。
風が誘う。
禍々しいくらいに明るい光が部屋を満たす。
マーガレットを呼ぶ。
「…月」
ゆっくりとマーガレットは立ち上がった。
窓枠に手を掛け、浸かれたように月を見入る。
「赤い…月…」
しつこい湿気が部屋の中に流れ、マーガレットに纏わりつく。
意思があるように絵本がページをぱらぱら捲った。
キィンと張り詰めた弦のような音。
鼓膜を突き抜け脳髄へと駆け上がる。
TVもラジオも消えている殺風景な部屋で、音波のような音だけが人の脳に直接木霊した。
首に掛ける湿ったタオルでマドラックスは耳を塞ぐ。
乾き切らない髪から雫が滴り落ちた。
言葉にならない音の声。
不快な音がマドラックに話し掛ける。
「何なの?」
壁に止められた勾玉のような胎児の一枚の絵をマドラックスは見た。
左側の淵が引き千切られたように破片にまみれた絵は古ぼけて色褪せている。
記号のような元素のような古代文字が本当の自分を垣間見せて誘う。
「…あなたなの?」
鼓膜に声が反響した。
「あなた…なんですか?」
赤い月が脳に返事をした。
「私を見ているのは」
出会いを求めるように。
「私に話し掛けるのは」
未来を知っているように。
「あなたは…」
運命を共鳴するように。
「「誰?」」
夜の公園は人気を失い、立ち並ぶ木々達が会話を楽しんでいた。
微風に葉を揺らし、夜空の煌めきを見上げて佇む。
落とされる影は深く足元を見せない。
闇の中で星に負けない光が二つ見えた。
太陽の下なら可愛い瞳も今は背筋を寒くする。
自然と足が明るい場所を求め、煌々と輝く光の前で止まった。
手入れされた自然の中で浮いた自販機は立ち並ぶ缶を後光に晒している。
白熱灯の白さにまことは目を細めた。
ポケットを探り数枚の小銭を取り出す。
枚数を数え、薄く開いた唇のような投入口に滑らすと赤い光が次々に点灯した。
真っ黒な缶の真下の光をまことは押した。
ガコッと潰れそうな音を立てて缶が転がり落ちる。
吸い込まれそうな大口に手を突っ込んで、引っかかる缶を少し無理にまことは取った。
もう一度薄い唇に小銭を滑らせる。
今度は同じ真っ黒の缶でも異なる段に並ぶ赤い光を押す。
転がり落ちる音は同じだ。
違いは先の缶は冷え過ぎに手が痺れ、今の缶は熱さに持つのが大変という夏と冬程度のささやかな温度だった。
「はい」
傍のベンチに腰掛けるレイに夏の缶をまことは差し出す。
「ありがと」
すんなり受け取るレイに熱くないのかなと思いつつまことは冬の缶のプルタブを引き上げた。
一口飲んで息を吐き出す。
覚醒の高揚感と記憶の波は思いの外、精神力を要した。
止め処無く溢れる力に体が気怠るさを訴え眠気を呼ぶ。
それでも、苛む寂寥感が消えた心は穏やかだった。
地に落ちた木の影が風に踊る。
目覚めた瞬間の声とは異なる声は歯切れが良かった。
同じ風じゃないんだとまことは思う。
覚醒前は漠然としていた囁きが、今ははっきりと伝わってくる。
寄り道した公園は自然の導きを重ね重ねまことに教えた。
「座ったら?」
聖書を黙読するように心を澄ませていたまことに腰をずらしてレイは席を譲る。
「あ…うん」
置いてけぼりにされた不満そうな視線にまことは一人じゃなかった事を思い出した。
薦められるままにベンチに腰を下ろす。
「そういえば、何でレイはあたしに連いて来たんだ?」
クラウンから一歩外に出れば、自分の道を進む。
出会った頃よりは表情も態度も緩和されたレイだが、それだけは変わらない。
なのに今日だけはまことの道に連いて来た。
話し掛ける事も然程しない。
でも隣にいる。
「別に」
軽く口を付けられただけの缶はレイの掌を温めるのに忙しかった。
時折、飲んでと誘うように缶が揺れる。
だが、レイは持ち手を変えるだけで誘いを断った。
「本当の所…どうだったのよ?」
「何が?」
問いに問いで返されレイは掌の缶を見据えた。
苛立ちを当てられた缶がくるくる回る。
「デートの事よ」
一息でレイは主語を告げた。
まことの瞳が瞬く。
珍しく俯き加減なレイの感情に風がそっとまことに耳打ちする。
「何も言わないんじゃなかった?」
「言わないわよ」
缶の誘いをレイは受け入れた。
喉を過ぎるブラックコーヒーの苦味に眉を顰める。
「聞いてるだけ」
素っ気無い口調と見据える瞳で感情を潜ませる。
なのに態度は雄弁に語っていた。
誤魔化すような溜息に、案外素直だとまことは思う。
「ふぅん。聞いてるだけ…か」
意味深な呟きがレイの癇に障る。
まことを強く睨む。
「何よ」
「何も言って無いだろ」
揚げ足を取ってまことは微笑んだ。
昼には感じなかった大地の気配。
風に流れ調和を織り成す気はレイの嫉妬さえも優しく受け入れる。
自然に喧嘩を売って勝てる人間などいる筈が無い。
こじれた感情を馬鹿らしくレイは思う。
まことが立ち上がった。
最後の一滴を飲み干して大きく体を伸ばす。
「別にデートなんかじゃなかったよ」
レイに背を向けたまま肩を竦めて、まことは空を仰いだ。
「ただのお礼だって言っただろ」
幾千物の瞬く光にまことは言う。
「でもまことに振られたって言ってたわよ」
「それは本当」
くるりとまことが振り返った。
「でもさ、やっぱりあたしにとってはデートじゃなかったんだ」
身を屈めてレイの瞳を覗く。
深い森に飲み込まれそうでレイは顔を逸らした。
優しくレイの頭をまことは撫でる。
「心配しなくても良いよ」
「―――っ!」
見透かした囁きにレイの頬が一瞬にして紅潮した。
「そろそろ帰ろっか」
素直じゃないお姫様にまことは手を差し伸べる。
「一人で立てるわよ」
「あ、そう」
無下に断られた手は簡単に引き下がった。
レイに背を向けてまことは帰路へ着く。
横に並ばず先を行く背を見つめてレイはまことの声を思い出した。
独りで良い。
そう告げられたのほんの数時間前。
両親が死んで一人を泣いていたまことは今日自ら一人を望んだ。
一人。
独り。
孤独を受け入れ、維持する為に独りを望む。
それは運命に飲み込まれたと言えないだろうか。
『助け合って強くなるんだよ!』
衝突した時に叫んだまことの声が嘘と呟く。
仲間である他人の背中に振り返って欲しいとレイは思う。
「あ、そうだ」
何かを思いついたまことが振り返った。
願いが通じたような不意打ちに惑いレイが立ち止まる。
「今度、映画行かない?」
それこそ本当の不意打ちだった。
反応出来ないレイの鼓膜が不意打ちを反芻させ脳に浸透させる。
「…奢りでしょうね」
搾り出した声はこんな皮肉めいた事しか言ってくれない。
そんなレイにぽつりとまことは呟いた。
「レイ…せこい…」
誘いながら喧嘩を売るまことに素直になる気がレイから失せる。
「煩いわね。誘ったのはまことでしょ」
腕を組んでレイはしっかり喧嘩を買った。
「だからって奢るなんて言ってないだろ」
「なら誘わないで」
売り言葉に買い言葉。
チケット一枚の値段が二人の心に火を着けた。
睨み合い、眼をつけ合う。
決してまことは怯まない。
自分の意見をはっきり口にする。
だからこそ何を言っても許される。
覚醒しても覚醒しなくても同じ土俵にいる根底にまことはまことだとレイは思う。
ふっとまことが力を抜いた。
諦めたように息を吐く。
「解ったよ。奢るよ」
両手を肩まで上げて奢ると呟く潔さに負けをレイは感じる。
「ただし…」
右手でぽんと缶を一跳ねさせたまことは全身で大きく振り被った。
「次回からは折半だから…ね!」
気合いの入った宣告に缶が投げられた。
木々の間に設置された公園のゴミ箱にストレートで缶が飛び込む。
針金を織って模られたゴミ箱とスチールで出来た缶がぶつかり、ひしゃげそうな音が公園内に充満する。
拳を握ってコントロールの良さを自慢するまことに冷めたコーヒーをレイは飲み干した。
腕だけで軽く振り被る。
「どっちがせこいのよ」
放られた缶が緩やかな放物線を描く。
小突くような音を一瞬だけ響かせたゴミ箱の中で、レイの缶がまことの缶の上でころんと転がった。
気づくのが遅かった。
出会うのが遅かった。
よく聞く言い訳が脳裏に浮かぶ。
ほんの少し前なら、鼻で笑って理屈を捏ねてるだけだと叫んだだろう。
でも、今は口を噤んで瞳を閉ざす。
未来を約束したあの人の姿は朝露のように胸に潜む想いに溶けてしまった。
そう…あなたと出会ってしまったから…。
透明なグラスの中で氷が鈴の音を奏でる。
涼し気な音色は琥珀色の液体を薄めて、喉越しを軽くした。
少し強めのアルコールがステップを踏んで意識を揺らめかせる。
ほのかに移る枷のある想いを瓶の先に手を伸ばして隠す。
持ち上げた瓶は惑う気持ちより軽かった。
琥珀を見せない暗いブラウン色の瓶が、ささやかな液体に揺れる。
開けたばかりの重みをすっかり失った瓶をつまらない気持ちでテーブルに戻す。
隣にはジュースよりも鮮やかな色合いの缶が数本、綺麗に立ち並んでいた。
眼前の来訪者に用意した軽いアルコールも、重なれば深い味わいへと変化する。
見つめる事すら躊躇う仄かに赤らんだ頬が艶に火照る。
「もう直ぐね…」
呟かれた現実に心の紐を固く結び、琥珀で流し込んだ。
「うん…」
焼ける喉が溜め息を零す。
グラスの淵をなぞる左手の薬指がタイムリミットを余儀無く告げる。
底に溜まる琥珀を傾けて視線を逸らす。
唇に触れた氷が冷たい。
吐いた溜め息が薬指の光を重く鈍らせた。
「お酒少し控えるようにしないとね」
困ったような苦笑に肩を竦めて応える。
「んー、それは難しいなー」
「もう…呆れられるわよ」
約束された幸せを前提にした些細な咎めは、酔いに彷徨う気持ちを呼び覚ます。
グラスの曲線に映る瞳が熱に浮かされる。
「でも…貴女は呆れないだろ…?」
両手で支えられた鮮やかな色が揺らいだ。
紅で染まった缶の口元を惑う唇が見つめて辿る。
無言の告白はどれだけ心を乱す事が出来るのだろう。
その冴える思考さえも奪えたなら瞳の奥に宿る気持ちに届くのだろうか。
淡い期待を裏切りの中で抱き、沈黙の時を静かに数える。
「今日の食事…美味しかったわね」
無音を破る感想に不意を突かれた。
ふわりとした微笑みに声を封じられる。
「また四人で行きましょうね」
瞳の真実を揺らいだ前髪が隠した。
喉に笑いが込み上げる。
滑稽な可笑しさに涙が浮かぶ。
歪んだ視界は望む者を映さない。
「そうだね。また行こう。四人で…」
グラスの鈴の音で終止符を打つ。
遅すぎた出会いを嘲笑って溜め息と共に吐き捨てる。
残った行く当ての無い想いだけが胸を焼き、焦がした。
「そろそろ帰るわ」
意味を解するのに数秒の間を要す。
ぼやけた思考が体を立ち上がらせた。
「あ…送るよ」
ゆらりと首が横に振られる。
「大丈夫よ。終電まだあるから」
やっとの言葉さえ拒絶する真意は深い。
酔いに溺れたまま後に続く。
瞬きの間を利用して廊下が玄関に行き止まる。
壁に肩を預けて靴履く様を見守る。
迫る約束の日からの逃避なのか。
ブラウン管のドラマを見ているように遠い。
「さよなら…」
見えない瞳が刹那の真実を語った。
翻る腕を思うより早く掴んで引き止める。
白い肌は触れる熱を解かない。
「終電…無くなっちゃうわ…」
顔の無い囁きが耳を掠め消える。
募った想いを唇が紡ぐ。
「なら…泊ってきなよ」
強張った腕が真意を垣間見せた。
最後。
二度と会うつもりは無い。
二人っきりの淡い期待は持たない。
幸せの代償がくるりと振り返った。
「幸せになってね」
有無を言わせない微笑み。
未来への道は一本だと見つめた瞳が言う。
指から力が抜けた。
逃げるように身が翻される。
「じゃあ…」
閉じられた扉が涙に濡れた。
約束されたその日。
指折り数えて待っていた。
あの人の元へ行けば、望んだ普通の幸せが約束されている。
正しいと思う。
左手をぼんやり光にかざす。
リングに埋め込まれたダイヤが光を乱反射させた。
影が落ちる。
憂い顔をリングが軋み責めた。
標のある道に触発され決意の兆しを感じさせる標。
二つの幸せを壊してまで得る想いは本当の幸せと言えない。
このまま未来へと敷かれたレールを歩けば、きっと時が全てを流してくれる。
「…忘れる?」
くっと喉元が笑う。
胸を占める想いは、約束の日をとうに忘れている。
背徳の上に築かれた想いは、時の流れに刃向う。
「無理だよ。気持ちはもう…あなたに…」
淀み無い海を思わせるフレグランスは未だ部屋に留まっている。
誘われてテーブルの暗いブラウンの瓶を取った。
残り少ない液体が波立つ。
別れ際の瞳のようにさざ波が揺れる。
「勘違い…だった…?」
深い真意を浅瀬にした刹那は、結び直した紐を緩めた気がした。
淡い期待が見せた幻だったのだろうか。
蓋を開け空のグラスに波を注ぐ。
深く迷い無い琥珀がグラスを飴色に染めた。
落ちた最後の一滴が波紋を作る。
次の無い挨拶が心に広がる。
切ない瞳が飴色に浮かんだ。
揺らして転がして飲み干す。
不意に部屋の隅で鳥が鳴いた。
さえずるFAXに耳障りを覚え、忌々しく立ち上がる。
届いたメッセージに酔いが掻き消える。
一行の真意がやるせない涙を誘い、駆け巡る熱情が標を裏切った。
FAXの横に添えられた白いレポート用紙を千切るように破る。
逸る気持ちを震える指が文字にした。
緩々流すFAXに苛立ち、見届けないまま部屋を飛び出す。
空のグラスの横で外されたリングが月の光にさよならを告げた。