妊娠-4-
「く、来るんじゃなかった…」
待合室で激しくなつきは後悔していた。
産婦人科という看板に偽りは無く、訪れている患者の殆どは妊婦だ。
数名お腹が大きくない人もいるが、宿してはいるらしく、大切そうに下腹部を護っている。
皆、年齢はそこそこ。
若くても20代前半位だ。
その中で10代半ばを過ぎたばかりのなつきは明らかに浮いていた。
自然と周囲の視線がなつきに集中する。
「頼む…早く出てきてくれ…静留」
紹介状を貰った当の本人はというと現在診察中だ。
付き添いであるなつきは診察室に入れて貰えず、こうして渋々待合室で待っているのだがどうにも視線が痛い。
性格上、然程世間の目を気にするなつきではないが、流石にこの状況はかなり精神的に堪える。
肩身が狭そうにソファーの隅で身を縮こまらせても、好奇の目は離れてはくれない。
ひたすらに静留の帰りが一分でも早い事を切に願う。
なつきが見世物となって絶え続けてから十分と数分経過しただろうか。
願いが通じたのか診察室の扉が開いた。
「静留」
見送る看護婦に一礼する知った後ろ姿に、なつきの瞳が縋って潤む。
「終わったのか?」
待ち侘びた犬のように駆け寄って来るなつきに静留は振り返り微笑む。
「ええ。えらい待たせてしまいましたな」
「よ、よし。なら早くここを出よう」
一秒でも早く脱出したいのだろう。
静留の腕を引っ張ってなつきは急かす。
「その前に…なつき」
やんわりとなつきの手を取って、脱出を遮るように静留は呼んだ。
「家に帰ったら大切なお話があります」
「え?」
神妙な面持ちの静留に入り口へ向かおうとする足が止まる。
「…やっぱ、どこか…おかしいのか?」
静留に向き直り、なつきは真顔に心配を乗せた。
「せやねぇ…」
視線を上げ、少し考えるように静留は首を捻る。
「おかしいかと聞かれたら…やっぱおかしいんやろなぁ」
他人事のように溜め息を吐く静留に、なつきの不安の色が濃くなった。
「やけど、なつきが考えてるのとはちょお違いますえ」
大丈夫と静留は笑むが、なつきの顔は逆に翳る。
「家に帰ったらちゃんと話しますさかい。ここでは……な?」
言って、静留はなつきに目配せをした。
意図に気づいたなつきが周囲を見ると数人の妊婦と目が合う。
一人でも集中していた視線は二人揃うと倍になっていた。
中心にいるなつきと静留は最早見世物というより晒し者に近い。
「そ、そうだな…。話は家に帰ってからにしよう」
努めて平静を装い、なつきは頷いた。
会計を済ませると静留は薬を一袋貰った。
一緒に添付された処方箋には聞いた事の無い薬剤名が書かれている。
「通院しなきゃ行けないのか?」
3日分と書かれた薬袋になつきは静留に問う。
「今はまだせんでもええんよ。この薬も絶対に飲まなあかんもんやないしね」
「そうか。だが、今はってどういう意味だ?」
「家に帰ったら話しますさかい」
そう言って微笑むと、静留は首を傾げるなつきを連れて病院を後にする。
外に出た瞬間、なつきがほっと息をついた。
「やっと逃げれた…」
好奇の視線を一人で請け負っていた体を大きく伸ばしてなつきは開放感を味わう。
「堪忍な。うちが無理言うてしもたばかりに」
「いや、気にしなくていい。…心配だったしな」
照れて、折角伸びた背をまた丸めるなつきに、ふわりと静留の瞳が細まる。
「おおきに」
そう言うと、静留はそれっきり何も話さなくなった。
診察の結果も。
大事な話も。
口にしようとはしない。
歩きながらなつきが何度様子を窺っても微笑むだけで。
言葉を発しようとはしない。
なのに、心なしか嬉しそうに見える。
「な、なぁ…」
沈黙と話の内容が気になって、なつきは恐る恐る声を掛けた。
「病気、じゃないんだよな?」
「ええ。ちゃいますえ」
はっきり静留が答える。
「なら大切な話って、何だ?」
見上げるように問うなつきに唇に、そっと静留は人差し指を立てた。
「家で話す言うてますやろ。もうちょお待っとってな」
微笑んで、寡黙の姿勢を崩さない。
にこやかに見える笑みは静留が人をはぐらかす時の常套で。
「……解った。その代わり家に着いたらちゃんと話せよ」
無駄だと悟ったなつきが溜め息を吐いて諦める。
「大丈夫。なつきにも関係する事やからちゃんと話します」
「私にも?」
「うちとなつき。二人に関係する事どす」
言って、静留は嬉しそうに微笑んだ。
ますます解らないと、なつきは思う。
静留の様子から察するに診察の結果は良好だったようだ。
そして、ここ暫くの調子の悪さは病気ではないらしい。
代わりに自分が関係している。
わずかに漏らされたヒントに眉根を寄せ、なつきは思考に耽る。
他事に気を取られた歩みは自然と遅くなった。
帰宅すれば考える必要すら無くなるというのに。
己で答えを掴もうとするなつきを面白そうに眺めて静留も速度を合わせる。
なつきの口元は何事かをぶつぶつ呟いている。
片付けが下手で、大雑把に見えてもA型という事だろうか。
気になりだすと止まないらしい。
そんな亀の歩みも一応前には進んでいたらしく、気づけばマンションに着いていた。
「タイムアップか」
マンションを見上げ、がっかりするなつきの背をぽんと静留は叩く。
「ええやないの。家に帰れば解る事なんやから」
言って、エレベーターの上矢印を静留は押した。
二階で留まっていたエレベータがゆっくり降りてきて、扉が開く。
二人揃って乗り込み、部屋のある階上まで昇ると、部屋の鍵は静留が開けた。
扉を大きく広げ、なつきを先に中へと促す。
「で、大事な話って何だ?」
玄関を一歩踏み入れたなつきの開口一番に、静留は驚いた。
「…家に着いたら言いましたけど、ほんまに直ぐどすなぁ」
瞳を瞬かせ、呆れたように言う。
なつき自身まだ靴も脱いでおらず、静留に限っては玄関すら越えていない。
「仕方無いだろ。気になってるんだから」
靴を脱ぎ、数歩先で腕を組んでなつきは待つ。
「なつきらしいとは思いますけど、せめてお茶くらい淹れさせとくれやす」
ゆっくり扉を閉め、静留は鍵を掛けてから、靴を脱いだ。
「お茶なんて後でいいだろ」
言って、ずかずかと部屋に入るとなつきは居間の中心で胡坐を掻く。
「さぁ話せ」
話すまで何も受け入れないぞと言う態度に、静留は肩を竦めてお茶を諦めた。
「ほな。お話しましょか」
なつきの前で腰を下ろした静留が膝を正す。
「その前にもう一度聞くが病気じゃないんだな?」
「ええ。ちゃいます」
はっきり静留が答えると、ほっとなつきが安堵の息を漏らした。
どうやら急いてた原因は病気を隠してるのだと思っていたらしくて。
なつきの急く気持ちを不謹慎にも静留は嬉しく思う。
「じゃあ大事な話って何だ?」
本題に入るなつきに、すっと静留は視線を外す。
「あんな、なつき…」
躊躇うように迷うように自分の膝を見つめ、そっと下腹部に触れる。
「うち…赤ちゃんが出来たんどす…」
告げて、直ぐさま静留は頬を掌で覆った。
照れてしまう嬉しい恥じらいの熱は思いの外高く、その温度にやはり照れて熱さが増す。
この引きそうにない熱はどうやって冷ますのだろう。
暫く、口元に笑みを浮かべながら困っていた静留だが、ふとなつきの返事が無い事に気がついた。
両頬を掌で挟んだまま上目遣いで窺うと、腕を組んだままのなつきは微動だにしない。
瞬きを忘れ、口はぽかんと開いている。
「なつき?ちゃんと聞いてはった?」
「……え?あ、うん」
人形のように首だけでなつきが頷く。
「うん。って…それだけどすか?」
文字通りおめでたな話に、うん。の一言だけでは寂し過ぎる。
他に何か言う事は無いのかと静留が顔を近づけると、なつきが人差し指を立てた。
「……済まない。もう一回言ってくれないか?」
「やから、うちに赤ちゃんが出来たって…」
「誰の子だっ!」
先刻の静けさは嵐の前触れだったのか。
怒涛の勢いで床を両手で叩いてなつきは叫ぶ。
「あ、あ、あ…あ、赤ん坊って、静留!一体どこのどいつの子なんだ!!」
「なつきの子どす」
青筋の立った剣幕を首を傾げて受け流し、さらりと静留は静留言った。
両手を突いた前屈姿勢のままなつきが耳を疑う。
「私の……子?」
「そうどす」
言って、にこりと静留は微笑む。
「2ヶ月やてお医者さんは言うてはりました」
「そ、そうか。そりゃめでたい…って、ちょっと待て!」
静留の眼前に掌を翳して、なつきは静留の幸せを押し留めた。
「それは有り得んだろ」
「何で?なつきかて身に覚えありますやろ?」
「そ、それは……まぁ…色々と……」
ごにょごにょ言葉を濁すなつきの頬が真っ赤に染まる。
「だ、だが、幾ら私と静留が…その…あれ、で、それ、でも…子供は無理だろ?」
「何でどす?」
「何でって……」
とても常識的な問題を子供のような純粋な瞳で聞かれ、なつきは軽く眩暈を覚えた。
「いいか静留。こ、子供ってのはだな…」
まさに今、小さな子供を持つ親の心境で、なつきは説明する。
「…お……お…」
「お?」
「お、おしべとめしべが…だな……」
遠回しついでに迂回までして最後の目的を忘れそうな出だしに流石の静留も呆れた。
「なつき…その説明やと小さなお子さんでも納得してくれへんよ」
「煩い!なら聞くな!!」
「ええどすかなつき」
こほんと静留が咳払いをする。
「赤ちゃん、言うんはね」
真顔で語ろうとする静留に、ぎょっとなつきが目を見開く。
「うわわ!いい!それ以上何も言うな!!」
ストレートにとんでもない事をのたまいそうな静留になつきは慌ててふためき。
「コウノトリさんが運んでくるんどすえ」
撃沈した。
「お前…それ本気で言ってるのか……?」
床に額を打ちつけたなつきが震える。
「冗談に決まっとるやないの」
「真顔で冗談を言うな!」
楽しそうに笑う静留のどこまでが本当でどこからが冗談なのか境界線が見出せなくて。
混乱した頭をぐしゃぐしゃとなつきは掻き乱す。
「あーもぅ!!子供が出来たってのは本当なのか嘘なのかどっちだ!?」
「それは本当、どすえ」
言って、お腹の上でそっと静留は両手を重ねた。
母性を漂わせる静留は、本当に母親のようで。
「…私の子、ってのもか…?」
片膝を立てて、なつきは横目で見つめる。
「そうどす」
「そうか…」
少しは落ち着いたのか。
溜め息混じりの息を吐くと、なつきは静留に向き直った。
「その、静留には悪いと思うが…正直信じられん。私も静留も女なんだぞ?」
どれだけ相手を想っても、そういう関係であっても所詮は同性同士。
どちらかが異性で無い限り、その証を手にする事は叶わない。
「本当言うとな。なつきの気持ちが解らんでもないんよ」
お腹から手を離し、静留は膝の上で掌を重ねた。
「もし、うちがなつきに子供が出来た言われたら…やっぱ、その…疑うと思います」
立場を置き換えて静留は想像する。
ほんの一瞬の例え話だというのに背筋に戦慄が走った。
悲しみと絶望が垣間見え、静留は首を振って払う。
「やけどな、なつき。よぉ考えとくれやす」
顔を上げ、静留は真剣に聞く。
「うちが男の人と浮気なんて出来ると思います?」
言われて、重大な事になつきは気づいた。
静留の性。
同姓にしか動けない情。
何時からなのか生まれつきなのかは知れないが、少なくとも男を相手する静留をなつき
は想像すら出来ない。
代わりに一刀両断する図が目に浮かぶ。
「私の子供より、無い気が…するな……」
常識範疇外の現実があまりにも静留にしっくり来すぎて、なつきは呆然とした。
「せやろ?なつきが好きやって言うてくらはったあの時からうちはなつき一筋どすえ」
「……その前は?」
「今はそんな話とちゃいます」
強めの口調で静留は話を切った。
「大事なんはうちの相手が誰なのかと言う事どす」
「それはそうなんだが」
どこか狐に抓まれるような引っかかりに、なつきが首を捻る。
「何かはぐらかされてる気がするんだ…」
「気のせいどす」
先刻同様、強く静留はなつきの思考を切った。
「それよりも今はこの子の事の方が先どす」
言って、下腹部を擦り主張する静留の手に、自然となつきの視線が引き寄せられる。
まだ目立たないお腹ではあるが、中には小さな命を宿している。
「そ、そうだな。こっちの方が大事だな」
頭を掻き、納得いかないまま頷くなつきに、内心静留は安堵した。
「幾ら昔の事や言うても…ちょおそれは言えまへんわ…」
視線を逸らし、口元に手を当てて、聞こえないよう静留は本音を漏らす。
「ん?何か言ったか?」
「何も言うてへんよ」
満面の笑顔で呟きを相殺させ、墓場まで持っていく決心を静留はする。
「で、その…子供の事なんだが…」
まだどこか信じられない顔でなつきは静留のお腹を見つめた。
「お前は…どうするんだ?」
「産みたい思います」
「……だよな」
あらかじめ答えは解っていたのか、なつきが溜め息を漏らす。
髪を掻き上げ自分の足元を見つめるなつきを静留は見つめた。
無言のまま落とされた視線は何を映し、どんな事を考えているのだろうか。
膨らむ不安を押し殺して静留はなつきの視線を追う。
不意になつきが大きく息を吸った。
「解った。子供の事は信じる。私の子だと…いう事もな」
絵空言のような現実を信じたなつきに静留の顔が明るく綻ぶ。
「だが、話の続きは明日にしよう」
だが、話を打ち切って腰を上げるなつきに不安が一気に静留に押し寄せた。
「なつき」
寝室に向かおうとするなつきを静留は引き止める。
「なつき…産んだら、あかん?」
「そうは言ってない」
「やったら」
「だから、話は明日だ。今は…少し混乱してる。明日にしてくれ…」
背を向けたまま済まないと謝り、なつきは部屋を後にした。
閉まる扉を静留は見つめ続け、完全に閉じると張った肩の力を抜く。
一先ずお茶でも淹れようかと腰を浮かし、膝が震えるのを感じて止める。
明るく喜んでいるように見えた静留だが、なつきと同じくらい…いやそれ以上に赤ん坊の存在に動揺していた。
だからこそ打ち明けるには大層の勇気と緊張が必要だった。
お陰で終えた今は足腰に力が入らない。
正座を崩し、足を伸ばすとまだ爪先が震えている。
それほどに緊張していた自分に静留は苦笑を零す。
転んでしまいそうな脱力感に完全にお茶を諦め、静留は寝室の扉へ背を預ける。
そっと下腹部に触れると、とくんと鼓動が聞こえた気がした。
「ほんまに…おるんやねぇ」
冷静に見えても信じられないのは静留も同じだった。
自分の性は静留自身が一番熟知している。
宿す器官があってもそれを使用する日は皆無だと思っていた。
しかし、まぎれもなく一つの命がそこで息づいている。
それもこの世で一番愛しい相手との間に生まれた命だ。
なつきのような戸惑いがあるものの、嬉しさの方がどうしても先に立つ。
「でも…なつきは…きっと…」
同姓の恋人との間に子供が出来るとは普通は思わない。
どれだけ体を重ねても、例え欲しいと願っても。
最初から考える事すらないだろう。
静留の中の命は自然の摂理からみても、科学的にみても、奇跡としか良いようがない。
もしくは神の気まぐれか。
そうならば神など信じない静留でも感謝の言葉くらいは伝えたくなる。
だからこそなつきの戸惑いも理解出来た。
「やけど…うちは…」
産みたいと、思う。
最初で最後であろう奇跡を潰したくない。
この手で愛しい相手の子を抱きたい。
慈しんで育てて行きたい。
「…なつき」
ゆるりと視線を上げ、独りごちのように静留は問う。
「産んだら……迷惑、どすか?」
その答えは一枚の扉に阻まれ、静留の元には返って来なかった。
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