思考が霞む。
頭の中に靄というよりは濃霧がかかったように考えがまとまらない。
単語辞典で単語を調べていた筈なのに何を調べていたのかさえ解らなくなる。
もう一度見直そうと教科書に目を向ければブロック体の英語が筆記体になって滲む。
異次元に引き込まれたような錯覚に頭が混乱する。
「変ね…」
ゆるりと頭を横に振ってレイは目を擦った。
霞んだ視界が2重のオブラートに包まれる。
無理に捲ろうとしたのが裏目に出たのか、オブラートの風呂敷は大きく広がっただけで余計に視界を悪くした。
それでも気をしっかり持って正面を向くと、何故だが亜美が斜め45度に傾いている。
どうして斜めに座ってるんだろうとレイは首を傾げた。
「レイちゃん?」
右斜め前からバウンドするように反響した声がレイを呼んだ。
オブラートの視界の隅でポニーテールが揺れる。
霧の中で手探りをする頭が1分以上時間をかけてまことを捕らえた。
「…何?まこちゃん…」
「何?じゃなくて。先刻から顔が真っ赤だけど大丈夫かい?」
自分の頬を触ってレイは確かめる。
赤いかどうかは解らないが特に熱いとは思えない。
むしろ冷たさをレイは感じた。
繊細な気配りで問うぼやけた顔に微笑む。
「大丈夫よ」
柔らかく溶けるように動いた頬の筋肉にぼやけた顔がずいとを近づいた。
「どうしたの?」
「や、どうしたのじゃなくて…」
似つかわしく無い壊れた笑みを浮かべるレイに大丈夫じゃないとまことは思う。
くるりと顔を回して亜美と美奈子に視線で聞くまことに神妙な頷きが返って来る。
「レイちゃん」
シャープペンを置いて今度は亜美がレイを呼んだ。
やはりバウンドする声に部屋を防音にした覚えは無いと、意味不明な事をレイは思う。
「風邪ひいてない?ここ数日寒かったから」
心配する亜美にレイの頬がどろどろに溶ける。
「大丈夫よー。私そんなにヤワじゃないわー」
力無い手を振りながら間延びした声で否定するレイは明らかに何時もと様子が違う。
心配する仲間を余所に本人は大丈夫と言い張る。
困って顔を見合わせるまことと亜美に、論より証拠と膝で歩いて美奈子はレイに近寄った。
「どれどれ」
こつりと額と額がくっつき、行司の合図を待たずに熱と熱が相撲を取る。
勝負は一瞬だった。
焼き魚の気持ちが解った美奈子が叫ぶ。
「ちょっと…無茶苦茶熱いじゃない!」
「…熱?…そんな物、無いわよ…」
気怠るそうな息を吐いても、レイは認めない。
「暖房が効き過ぎなのよ」
言ってテーブルのリモコンに手を伸ばそうとするレイの頬を美奈子は両手で包んだ。
「何言ってるのよ。普段ならこんな事したら一発入れるでしょ」
言って美奈子はレイに口づけた。
「美奈子ちゃん!?」
突然繰り広げられたキスシーンにまことの目が見開く。
斜め前では亜美が耳まで真っ赤に熟させていた。
我を忘れて呆然と見つめる観客を気にせずにきゅぽんと音を立てて美奈子は唇を離す。
「ほら。何の反応も出来ないじゃない」
濡れた唇を指先で触れるだけで、拳一つもお見舞いしないレイに美奈子は胸を張る。
「や…もう少し他の方法を…」
さり気無く突っ込むまことを無視して、美奈子はレイを引き寄せた。
肩に持たれ掛からせ、あやすように背を擦る。
全身の熱が服越しに具合の悪さを美奈子に教えた。
「今日の勉強会はお終い。レイちゃんはベッドで休む。良いわね?」
始終、命令する美奈子にどうして怒ってるのだろうとレイの働かない思考が考える。
しかし、くるりと反転した頭には難しい課題だったのか白旗を上げて痛みを訴えた。
自己防衛機能が働き出す。
疑問をシャットアウトする。
ついでに体の機能もシャットアウトされたレイは全身を美奈子に預けた。
「解ったわ…」
しぶしぶとレイが頷く。
実の所、自分が今どんな状況にいるのかレイは把握出来ていない。
立っているのか座っているのか。
はたまた寝転がっているのか。
美奈子が体を支えてくれているのは背に回された腕が教えてくれる。
そして先刻のまことの言葉で顔が赤いらしいのも朧気に理解出来た。
まことと亜美が帰り支度を完全に整えられる程の時間を掛けてレイは結論を出す。
風邪。
「…やっぱり、調子悪いみたい…」
負けを認めたレイの呟きに、風邪をひいたような頭痛がして美奈子は頭を抱えた。
「もっと早く気づいてよね…」
気丈過ぎるのも問題だと美奈子は思う。
張り詰めた気で弱さを隠す硝子の強さ。
相手の事を思う故に自分を省みない諸刃の剣を構えるレイの弱音を美奈子は聞いた事が無かった。
どれだけ辛くても苦しくても表にさえ出そうとしない。
ただ、黙り続ける。
それがどれだけ美奈子の心配の種を芽吹かせている事か。
熱い体を美奈子は抱きしめた。
「意地っ張りなんだから…」
怒るように呆れる美奈子に顔を見合わせたまことと亜美が肩を竦めて苦笑する。
「とにかく。ベッドに横になって」
体を離してを美奈子はベッドを指差した。
「そうするわ…」
意識した途端、体の熱が上がった気がしたレイの体がふらりと揺れる。
火照った体は炎のように熱く、吐き出す息がねっとりした渦を巻く。
机に手を突いてレイは立ち上がった。
膝から力が抜けた。
崩れ落ちる体を美奈子が慌てて支える。
「どうしたの?」
「…何でも無いわ」
首を横に振って美奈子から手を離すとレイはもう一度立ち上がろうと試みる。
しかし、膝はおろか腕にも力は入らない。
完全に体の機能もシャットアウトされたレイは生まれ立ての子馬のようにお尻をつけて座り込んだ。
眉を顰めて額に汗を滲ませるレイにまさかと思った美奈子は問う。
「立てないの?」
無言が肯定する。
「もう!どうしてそう素直じゃないのよ!!まこちゃんちょっと手貸して」
「OK」
呼ばれて軽々とまことは立ち上がった。
軽い足取りで歩むとまことはレイの横でしゃがむ。
「ちょっとごめんね」
謝った手でレイの肩を抱き、膝裏にもう片方の腕を忍ばせる。
そしてまことは一気にレイを掬い上げた。
ふらつく事の無い逞しい腕がゆっくりとレイをベッドへと運ぶ。
お姫様だっこしている体を熱く感じるのは、日頃抱き慣れた体温が低いだけのせいじゃないとまことは思う。
手の甲を額に押し当て辛そうに閉じられた瞳の中央には皺が寄っている。
「ったく。どうしてみんなこうも強情なんだろうな」
自分の事を棚に上げてまことは苦笑した。
「…ごめんね」
そうっとベッドに寝かしつけるまことに薄っすらとレイは瞳を開ける。
「別に良いさ。それより早く治してよ。ね?」
汗ばんだ頬に張り付く髪を指で避けてまことは微笑んだ。
「あたし達は帰るからさ。ゆっくり休んでよ」
「…ええ。ありがとう…」
苦悩の表情のままでレイは瞳を閉じる。
頬に張り付いた髪を指で払いまことは振り返った。
「亜美ちゃん、美奈子ちゃん」
小声で呼ぶまことに鞄を持って亜美は立ち上がる。
まことの鞄も一緒に持って音を立てないで亜美は障子を開けた。
忍足でレイから離れたまことは部屋の入り口で鞄を受け取り、耳元でありがとうと囁く。
「美奈子ちゃん」
腕を組んだままレイの傍から離れない美奈子をまことは呼ぶ。
「私は残るわ」
はっきりとまことに美奈子は告げた。
怒っているように唇を真一文字に結んで、美奈子はレイを見下ろしている。
組んだ腕の先では指が苛立つように脇腹をとんとんと叩いていた。
「そっか」
頷いてまことは亜美を外へ連れ出す。
暖房の効いた春の部屋から一歩出ると、そこは紛れも無く冬だった。
冷たい風が通り抜け、骨の髄まで寒さが伝わる。
大きく身震いしたまことはジャンバーのチャックを上げ、亜美はマフラーを巻き直した。
「んじゃ。美奈子ちゃん後は宜しく」
片手を上げてまことが渡すバトンを美奈子は後ろ手で受け取る。
「明日お見舞いに来るわ」
軽く手を振って亜美は障子を閉じた。
静かな部屋で暖房の動作音だけが響く。
リモコンを取って温度を1度上げるとベッドの傍に美奈子は座る。
無理が祟ったのか額を汗ばませて眠るレイの呼吸は早い。
額に手を当て改めて熱を測る。
熱いと思う。
「…ごめんね。気づいてあげれなくて…」
赤味の増した頬を指でなぞって美奈子はぽつりと呟いた。
街灯がぽつぽつと夜道を照らし出す。
上からの白い光は短く影を地へと浮かび上がらせる。
並ぶ二つの影。
亜美の家へと続く道をまことは当たり前に進む。
「美奈子ちゃん怒ってたね」
頭の後ろで手を組んで目くじらを立てる美奈子をまことは思い出した。
戦いの最中以外はお茶らけが主流なだけに少しばかりの意外性を隠せない。
「それはレイちゃんが本当に心配だからよ」
「解ってるよ」
庇うように説明する亜美にくすりとまことは微笑む。
「美奈子ちゃんにとってレイちゃんは特別な存在だからね」
「…そうね」
共にいても、遠く離れていても心に住む相手はやはり友達とも仲間とも違うのかもしれない。
遠い雰囲気を持つ特別という音はその相手には嬉しい言葉でも友達としては少し寂しいと亜美は思う。
そうっとまことを盗み見た。
亜美にとって特別な存在は何も言わなくても家まで送ってくれる。
レイと一緒にいるのは楽しい。
美奈子と話してると少し困っても面白い。
まことは違う。
落ち着くのに胸は逸る。
どきどきしながらも一緒にいたいと思う。
美奈子やレイに同じ寂しさを感じさせているかもしれないと思うと心が痛む。
だけど譲れないたった一人の相手。
そんな相手を特別というのなら決して人の事は言えないと亜美は苦笑した。
「大切な相手だから怒るのよ」
「うん。そうだよね」
空を見上げて納得するまことに3歩駆け足で亜美は先へ進む。
「亜美ちゃん?」
身を翻すように向き直る亜美にまことは首を傾げた。
「まこちゃん」
にっこりと亜美が微笑む。
「よく覚えておいてね」
ぴたっとまことの足が止まった。
柔らかい微笑みに滝のような有無を言わせない強さをひしひしと感じる。
「………はい」
特別な相手だからこそ怖さも倍増なんだと知ったまことは亜美から引き攣った頬を視線ごと逸らした。
額から何かがずり落ちるのを感じてレイは瞳を開けた。
熱に潤んだ視界に蛍光灯の豆電球がぼんやりと浮かぶ。
横を見ると氷嚢がちょこんと枕の上に乗っている。
落ちたのはこれだったんだとレイは思う。
布団から手を出して氷嚢にレイは触れる。
まだ溶けて無い氷で、でこぼこしたゴム製の袋は冷たい。
汗をかく氷嚢に乾いた喉が水を要求する。
こほっと一つ咳を落としてレイはだるい体を起こした。
「レイちゃん起きた?」
聞こえた声に振り向いたレイは灯りの着いた学習机に目を細めた。
眩しい光の中で椅子に座った人のシルエットが浮かぶ。
「…美奈子…ちゃん…?」
長い髪と細い輪郭から想像した名をレイは呼んだ。
「そうよ」
椅子から立ち上がってベッドまで歩いた美奈子はレイの額に手を当てた。
まだ熱いものの先刻よりも冷たい額にほっと安堵する。
「熱も少し下がったみたいね。具合はどう?」
「…先刻よりはましみたい…」
掠れた声で答えるレイに枕元からグラスと水差しを美奈子は取った。
「お水飲む?」
「…ん」
グラスに七分目まで水が注がれ渡される。
両手でグラスを包んでグラスを傾けるレイにみるみる水は無くなっていく。
完全に飲み干して一息つくレイからグラスを取り美奈子はベッドに腰掛けた。
「まこちゃんと亜美ちゃんは?」
元に戻った声でレイは問う。
「帰ったわ。二人とも心配してたわよ」
枕元にグラスが置かれる。
「そう…悪い事しちゃったわね」
溜め息混じりに呟いてレイは落ちてくる髪を横に流した。
手に張りつく汗で曇った髪にお風呂に入りたい衝動に駆られる。
しかし、万全な体調で無い衝動に乗るのは悪化させそうで、肩を落としてレイは諦めた。
「レイちゃんそんな体でどこ行くのよ?」
ベッドから抜け出すレイに美奈子の眉が上がる。
「着替えるのよ。汗掻いたし服のままじゃ寝ぬくいわ」
箪笥を開けてパジャマを探るレイに、ぽんと手を叩いた美奈子は破顔した。
「あ、じゃあ私が…」
「結構」
言い終わらないうちにさっくりと断ってレイは入り口の障子を指差す。
「あんたはあっち」
「えー」
「えーじゃない。あっち」
ガンを飛ばすように睨むレイにしぶしぶ美奈子は背を向ける。
箪笥の閉まる音が聞こえた。
衣が擦れる。
パサリと床に落ちた。
その上でまた聞こえてきた衣ずれの音にパジャマを着たレイを美奈子は想像する。
「ねーレイちゃん」
上を向いて呼ぶ美奈子にパジャマのボタンを留めながらレイは応える。
「何?」
「ちょっと思ったんだけど」
「だから何よ」
「着替えを覗くよりも音だけ聞こえてくる方がイヤラシイと思わない?」
問いた美奈子の後頭部にクッションが飛んだ。
レイのクリティカルヒットを受けた美奈子が前のめりに突っ伏す。
「馬鹿な事言ってるんじゃないわよっ!」
撃沈する美奈子に止めともう一つ赤いクッションを飛ばしてレイはベッドへ潜った。
「…いたた」
後頭部を擦りながら美奈子は体を起こす。
「…ちょっと思っただけなのに」
見事な攻撃を決めて落ちた誇らしげなクッションをぽふんと軽く叩いた。
ふわりと香るレイの匂いに思わず抱きしめる。
「これだけ元気なら、もう心配はいらないわよね」
囁かれたクッションは何も返さない。
それでも、投げ飛ばす元気に美奈子は安堵の息を吐いた。
ゆっくりと立ち上がってレイの元へ美奈子は歩む。
ベッドに腰掛けてクッションを横に置く。
背中を見せるレイの黒髪が枕の上でたゆたいながら誘う。
先端を摘んで気づかれないように美奈子は唇を寄せた。
触れる寸ででするりと逃げていく。
つれないと思う美奈子は寝返りを打ったレイと瞳が合う。
「そういえば、どうして美奈子ちゃんは帰らなかったの?」
素朴な疑問を投げかけるレイに微笑んで美奈子はウインクした。
「だって起きた時一人だとレイちゃん寂しいでしょ?」
瞬いた視線がすいと逸らされる。
自分に言い聞かせるようにレイは呟く。
「別に…寂しくなんか無いわよ」
言って顔まで布団を摺り上げレイは顔を隠した。
「そう?」
「慣れてるもの」
「…そう」
くぐもった声の独白。
幼き日に両親と死に別れた悲しみは両親が存命する美奈子には解らない。
体の弱りが心の寂しさを呼ぶのか一人でも平気な夜は病気の時だけ顔を変える。
些細な音にさえ心臓は跳ね上がり、その度に恐怖が襲う。
目を覚ましても誰もいない。
ただ、冷たい布団に助けを求め続ける。
泣きながら眠るレイを思い描いた美奈子はゆるりと瞳を閉じた。
はぁと辛そうな溜め息を零すレイに瞳を開け、布団の上からあやすように擦る。
「…もう少し寝た方が良いわ」
布団の裾を直す美奈子にレイは素直に頷いた。
「美奈子ちゃんは帰るの?」
「そうね。夜も遅いしそろそろ帰るつもり」
「そう…」
当たり前の返事に熱で緩んだ涙腺が痺れる。
何故か裏切られた気がして耐えるように布団の中の手がシーツを強く掴んだ。
今更と唇が言い聞かせる。
「…だったけど止めたわ」
足を組んで美奈子は腰を落ち着かせた。
肩を竦めるように突いた両手が柔らかい布団に窪みを作る。
覗くように顔を出したレイにふわりと美奈子は微笑む。
「朝までいるわ。別に良いでしょ?」
心を見透かす笑みへの答えをレイは持たない。
悔しいような嬉しいような歯がゆい気持ちにレイは寝返りを打って背を向けた。
「勝手にすれば…」
突き放す言葉とは裏腹に手がゆっくりとシーツを離す。
涙腺の熱が静かに引き、レイは瞳を閉じた。
優しいメロディーが聞こえ出す。
「何のつもり?」
顔だけ振り向かせて問うレイにメロディーが止んだ。
「子守唄よ。嫌?」
「…別に」
すいと顔を逸らしてレイは枕を抱き寄せた。
傷を癒すような歌声が心に響く。
一人じゃないと教えるメロディーはどこか聞き覚えがあって体の緊張を解かす。
耳の奥で木霊する旋律に切なさが込み上げる。
なのに、どこか心地良い。
「こういうのも…良いかもしれないわね…」
抱きしめるように眠りに誘う美奈子の声にゆるゆるとレイは瞳を閉じた。
その夜、レイは久しぶりに母に抱かれる夢を見た。



