今年の夏は冷夏の文字に相応しく、光り輝く太陽は引っ込み思案だった。
それでも茹だるような暑さの日は無かった訳では無く、その中出掛けたのは半分自殺行為だったかもしれないと地面から沸き立つ陽炎を見ながら美奈子はぼんやりと思う。
「…暑いわ…」
「折角晴れたんだから出掛けましょと言い出したのは美奈子ちゃんでしょ」
言いだしっぺのぼやきに額にじわりと汗を滲ませたままレイは腕組んだ。
ちらりと前を見れば信号が直立不動の人形を赤い光りが浮き出している。
目の前を走り去っていく車の排気ガスで余計に暑さを増している気がしてレイはふうと溜め息をついた。
「ったく、自分で誘ったんだから先に根を上げないでよ」
「そうだけど…夕方過ぎたら少しは涼しいと思ってたのよー」
久しぶりの太陽は力を持て余していらしく西に傾いた今でも楽しそうに熱を送り出している。
恨みがましそうに太陽に目を向けるとオレンジの眩しさに美奈子は返り討ちにあった。
「ほら。信号が変わるわよ」
ちかちかと交代の合図を送る信号にレイは一歩足を進める。
「あーい…」
軽く手を挙げ、ゼブラを刻まれた道路を美奈子は歩いた。
参った顔で前を見つめると半歩前を進むレイの毅然した姿が揺らめく熱の中に見える。
背筋を伸ばして歩くレイの姿は何にも捕われていない。
それはまるでどこか見知らぬ世界へ行ってしまいそうで美奈子は思わずレイの左肩を掴んだ。
振り返ったレイが驚いた様子で美奈子を見つめる。
「どうしたの?急に」
強く掴んでいた手が確かな温もりに安堵してするりと力が抜けていく。
我に返ったように荒い息を吐き、美奈子はレイから手を離した。
「あ、何でもないわ」
肩を竦めて美奈子は笑む。
「なら良いけど…大丈夫?」
「え?そう?」
「なんか…様子が変だから」
自分よりも明らかに量の多い美奈子の頬を伝う汗の後をレイの指が辿る。
頬から顎へとゆっくりと進み、最後に美奈子の額をレイの手の平が覆う。
「熱は…無いみたいね」
心配するレイの声が心に響き、感じる温もりの優しさに安堵を落とす。
しかし胸の音だけは反比例してとくとくと早くなっていった。
するりとレイの手から体を逃がす。
「や、やーねー。ちょっと暑さにやられただけよ。大丈夫」
地面から喘ぎ立つ熱よりも高くなり始めた自分の熱を美奈子は笑い飛ばした。
「なら良いけど」
腕を組み直したレイの目が安心したように細まる。
「ありがとう。心配してくれて」
ふわりと笑む美奈子に微かにレイの顔が赤らんだ。
しかしそれは熱さにせいに見え美奈子は自分の心に浮かんだ疑問をゆらりと沈ませた。
「どこか涼しい所で休みましょ。私も暑さにやられそうだわ」
身を翻したレイの黒髪が熱い空気の中ですらりとなびく。
膝近くまである黒髪はそれなりの重みがある筈なのにその動きは滑らかで呆然と立ち尽くす。
遠ざかる後ろ姿は何人にも心を許してないようで数メートルの距離が美奈子には酷く遠く感じた。
追いかけても追いかけても縮まる事の無い現実を無理に教えられたようできゅっと唇を噛んで胸の痛みに堪える。
そんな美奈子に怒ったような心配する声が聞こえた。
「美奈子ちゃん何やってんのよ。ぶっ倒れたらその場に捨てていくわよ」
腕を組んだまま待つレイの変わらない叫びを美奈子は嬉しく思う。
「レイちゃん冷たいー」
「なら早く来なさいよ」
ふっと一つ息を吐いて顔を上げた美奈子は置いてかれた子犬のようにレイの元へと駆け出した。
「掛かって来る訳ないわよね…」
ゆらゆら手の平で転がした電話の子機を美奈子は背を預けているベッドの上へぽいっと放った。
膝を抱えて天井を見上げると居場所を求めた視線がついと電話へと戻っていく。
「駄目だわ…」
ふるりと首を横に振って傍にあったファッション雑誌をぺらりと捲る。
流行の服をモデルが、たおやかに着こなした写真をぼんやりと見ながらぱらぱらとページを捲っていく。
モデルというだけあって皆可愛いと思う。
それでもレイに敵わないと思うのは惚れた弱みという奴なのだろうか美奈子は苦笑した。
ぱたんと雑誌を閉じて鳴る事を忘れた電話の横に添い寝する。
「用も無いのに電話してくる人…じゃない…ものね…」
一人ごちのように呟く。
2日逢ってないだけなのに胸が痛い。
寝ても覚めてもこれほどに気になるのは一人だけで逃げるように美奈子はぽんと腕を投げ出して仰向けに転がった。
「なーんで、こんなに好きになっちゃったのかしらねー」
想いがゆらりと胸の中を漂う。
灯台の見えない夜の海を彷徨う寂しさに喉が詰まり熱い息を吐き出す。
それでも胸の熱は温度を増すばかりで、その熱さに美奈子は先日の出来事を思い出した。
捨てていくと言いながら待っていたレイ。
「照れ隠しの強い口調も変わらないわね」
腕を組んで唇を尖らせがら心配の色を浮かべていた瞳は現世と同じだと美奈子は思う。
その瞳が愛しいと思うと同時に憎いとも思う。
自分達に課せられた運命のように果てない想いに時折、美奈子は終止符を打ちたい衝動に駆られた。
気持ちを素直に言ってしまえば良くも悪くも何かが変わるだろう。
だが、それを出来ないのは過去と未来を恐れる自分の弱さ。
現世の気持ちを引きずってるとは思わない。
前世ではヴィーナスとしてマーズを、現世では愛野美奈子として火野レイを好きになったと信じている。
それでも最後に行き着く所は現世と変わらない想いで、他の人を好きになれたらどれだけ楽だろうと美奈子は思う。
だが笑顔で人を欺けても自分は欺けない。
同じ位置にあるスタートとゴールを数え切れない往復を繰り返した美奈子は諦めたように金色の髪を掻き上げた。
「…堂々巡りだわ」
どれだけ季節が変わっても、何度生まれ変わってもこの気持ちだけは変わらない自信がある。
それ故に拒まれた時の辛さは計り知れない。
愛してる故の悲しみが胸を占め、堪えきれない気持ちが頬を伝う。
「何時か…現世じゃなくても良いから…お願い…」
何度も巡り会う運命に全ての願いを託して美奈子は無機質な電話を抱きながら眠りに落ちた。



