4502-キリリク-

「あ、待って」

 別れ際に呼び止められレイはくるりと振り返った。

 腕を組み何事かと首を傾げるレイにくすりと笑い美奈子は近寄る。

 霞むほどのアップ。

 唇へと降りた柔らかい感触。

 呆然と目を見開いてそれを受け止めたレイにくるりと美奈子は背を向ける。

「お休み」

 それ以上何も言わずに帰路に着く美奈子をレイはその場に立ち尽くして見送った。





 戯れのように始まった関係は当たり前と姿を変え、何時しか深さを増していた。

 触れるだけの挨拶が時間を綴り離れる頃に吐息を零させる。

 艶めく唇を拭い、憂う瞳でぼんやりと見つめるレイにくすりと美奈子は笑う。

 ただ笑うだけ。

 何を言う訳でも無く、何をする訳でも無い美奈子を見送る。

 そんな偽りの日々はやがてレイに疑問を持たせた。

 何故キスをしてくるのか。

 何故自分はそれを甘んじて受け入れるのか。

 疑問が疑問を呼び、一つの答えも出ないまま関係だけが深みを増して堕ちていく。

「…っ。は…あ…」

 艶かしい声と汗ばんだ体は自分の物と思えなくて手の甲に歯を立て堪える。

 それでも漏れる声は更に熱を帯びて耳を刺激した。

「声…我慢しないで…」

「んっ…ああっ!」

 するりと手を外され甲高い声が一段と部屋に響き渡る。

 自分と同様に、いやそれ以上に汗ばんだ体に抱きしめられ声を唇で塞がれ情がレイに涙を流させた。

「レイちゃん…」

 囁く声が好きだと思う。

「気持ち…良い?」

 自分に触れる指が愛しいと思う。

 それでも想いは見えなくて、どれだけの時を共にしても体を重ねてもただ空しさが強くなるばかりだった。

 そして不安が生まれた。



 

「はい。お茶」

「ん…」

 力の入らない両手でカップを包むようにレイはお茶を受け取る。

 汗で張り付いていた黒髪がさらりと流れた。

 こくりと一口飲めばからからの喉を潤してくれて声が戻って来る。

 少しだけ顔を上げて美奈子を窺えば目を細めて自分を見つめていた。

 愛しむ微笑む。

 それが本物なのか偽物なのかレイには読み取れない。

「ねぇ…」

「何かしら?」

 傾げられた首に呼応して金色の髪がなびく。

「どうして…こんな事するの…?」

「え…」

 そんな質問をされると思っていなかったのか驚いた美奈子の顔がレイの目に映る。

 暫くぽかんと開けられた口はゆっくりと寂しそうな笑みへと変わり瞳が閉じられた。

「じゃあレイちゃんはどうして私に抱かれるの?」

 はっきりと行為を口にした美奈子にレイの顔が赤く染まる。

「それは…」

 隠すように枕へ顔を埋めるレイの口が言葉を発しようとして結ばれた。

 揺れる瞳が自分を待っているのが見なくても解る。

 声を潜め、動き一つ気配一つ、見落とさないように気を張っているのを感じる。

 ぎゅっと枕を抱きしめ体ごと背を向けるとふうと美奈子から溜め息が零れた。

「…帰るわ」

 立ち上がる美奈子に重しが減ったベッドがきしりと音を立てる。

 ぱさばさと服を着る音だけが聞こえ瞳を閉じてレイは時が過ぎるのを待った。

 からりと開かれた障子が直ぐに閉じられる。

 ゆっくりと顔を動かせば自分以外誰もいなくなった部屋は酷く広い。

 疲れ切った体を起こしたレイの胸元に幾つかの赤い印がついていた。

 情事の足跡。

 布団を引っ張って隠すように体を包む。

 痛みに堪えようと体を丸めたレイの唇から嗚咽が漏れた。

「くっ…ばか…」

 空っぽの心に浮かぶのは寂しい笑顔。

 逃れる事の出来ない螺旋をレイの涙が何時までも濡らし続けた。





「ホテルでも行く?」

 待ち合わせに遅れて来た揺れる瞳が言う。

 冗談なのか本気なのか読み取れない笑顔にレイの右手が勝手に動いた。

 乾いた音が天まで届く。

「いい加減にして!」

 打たれた頬をそのままに見つめ続けてくる美奈子にきりっとレイの歯が食い縛られる。

「どういうつもりなのよ!何時も何時も!」

「…どういうつもり?」

 ゆるりと美奈子が顔を上げた。

 敵を前にしたような瞳に見据えられレイの背筋がぞくりと震える。

「決まってるじゃない。あなたを抱きたいの」

 感情を持たない告白が胸を貫きレイは叫び声を上げた。

「冗談じゃないわ!もうこりごりよ!こんなの…こんな関係もう終りよ!」

「レイちゃん…」

「そんな声で呼ばないでっ!二度と…二度と私を呼ばないでっ!」

 全てを無に帰そうと、胸の想いを消そうと立ち尽くす美奈子を置いてレイはその場を走り去った。





 どこをどう走ったのか解らない。

 気づけば見た事の無い町の中をぼんやりと歩いている自分がいた。

 微かに戻った理性で辺りを見回し場所を特定出来る物をレイは探す。

 しかし何も見つける事が出来ない。

 行き交う人々はレイは存在しないように通り過ぎていく。

 全てを忘れようとして世界に忘れ去られたレイは恐怖を覚えた。

「寒い…」

 ぶるりと震えた体をレイは抱きしめる。

 偽りと戯れに彩られた関係と共に全てを忘れれたらどんなに楽になれるだろうかと思いレイに自嘲気味な笑みが浮かぶ。

「そんな事出来る訳ないわ…」

 胸に浮かぶ想いはもう消す事は出来ない。

 でも伝える事も出来ない。

 心が悲鳴を上げる。

「誰か…助け…て…!」

 ふわりと肩に温もりが降りた。

 驚きに顔を上げれば優雅な笑みが見える。

「どうしたの?こんな所で」

「みちるさん…」

「レイ?」

 優しい響きを持つ音。

 先刻のように痛み伴った声でない事に安堵と寂しさを覚え雫が零れた。

「レ、レイ?」

 焦りを帯びたみちるにゆるりとレイは首を振る。

「ご、ごめんなさい。ちょっと…」

「…何か悲しい事があったのね?言ってごらんなさい。聞いたげるわ」

「…はい」

 頷いてレイはみちるの後を続いた。





「そう…」

 近くの喫茶店で促されるままにみちるへ美奈子の事を始終話したレイは俯いて後悔する。

 寂しさと悲しみに負けて話したものの誰かに相談出来る内容じゃない事を改めてレイは自覚した。

 みちるの反応が酷く怖いレイに顔を上げる勇気は無い。

 膝の上の拳がかたかたと震える。

「レイ」

 びくんとレイの体が強張った。

 しかし、レイの思いとは裏腹に優しい手がレイの頭を撫でた。

「辛かったでしょう?よく頑張ったわね」

「みちるさん…」

 蔑まされても不思議じゃない告白をみちるはさらりと受け止める。

 信じられないと見つめてくるレイにみちるは笑みを浮かべた。

「あなたは美奈子の事がとても好きなのね」

「…はい」

 だから行為が辛い。

 体だけの関係なんて空しいだけで、何も幸せは感じられなかった。

 それでもその時の優しさは酔ってしまうほどに甘くて、その度にこの人が好きだと自覚させられる。

 甘美と屈辱。

 間で、もがきながら直も求めてしまうのはやはり想いのせいでレイに選択の余地は無かった。

「大丈夫よ。美奈子もあなたの事を好きよ」

 ふるふるとレイは首を振る。

「あら?どうしてそう思うの?」

「だって…一度も好きなんて…言われた事ないです」

「聞いてみたの?」

「え?」

 すいとレイは顔を上げた。

「聞いてないのでしょう?」

「…はい」

 くすりとみちるは笑む。

「待ってるだけじゃ駄目よ。自分で聞いてみなきゃ」

「私が…」

 何時だってそうだった。

 二人っきりの時。

 行為の後。

 何度も聞こうとした。

 それでも戯れだと言われる怖さが言葉を紡がせない。

  体だけの関係。

 不安だけが大きくなる想い。

 寂しい笑顔。

 全ては待つだけの日々が押し出した結果なのかもしれない。

「一度ゆっくりと話をしてみるといいわ。そうすれば何か変わるかもしれなくてよ」

「そう…ですね…」

 まだ話しをする猶予はあるのだろうか。

 もう一度やり直せるのだろうか。

 考えれば考えるほど胸は苦しくなり、情が頬を伝う。

「ほら。泣く暇があったら前に進みなさい。後悔したくないのならね」

「…はい」

 頷いてもまだレイには動くだけの勇気は持つ事は出来なかった。

 



 火川神社へと帰ったレイに一通の手紙が届いていた。

 切手も無く、差出人の名も書かれていない白い封筒の手紙。

 それでもレイには誰からかなのか直ぐに解った。

 部屋のデスクに置いて暫く開けるかどうか躊躇する。

 そんなレイの耳にみちるの声が蘇った。

『後悔したくないのなら前に進みなさい』

「そうよね…。後悔だけはしたくないわね…」

 震える指が手紙を取った。

 躊躇いが少しづつ封を切る。

 ぺりっと糊の外れる音が妙に耳についた。

 中には便箋が一枚無感動に入っている。

 畳まれた手紙を伸ばし目を向けたレイはがっくりと肩を落とした。

「何でこんな時でもこんなに誤字脱字が多いのよあの人は…」

 書き損じをくしゃくしゃと丸く消されたその隣に新しい誤字。

 意味がすっぱりと抜けてしまい理解に時間を要しそうな脱字。

 ニュアンスだけで意味を理解しろと言わないばかりの手紙にレイはくすりと笑う。

 レイの手が赤ペンを取り、さらさらと手紙の添削を始める。

 白い便箋がみるみるうちに真っ赤になり仕上がりを確認するレイは頭を抱えた。

「本当…馬鹿ね」

 元通り四つ折り畳み封筒に入れるとデスクから切手を出して貼る。

「さあ…これからあなたはどうする?」

 情だけははっきりと伝えた手紙を試すようにレイは投函しに部屋の障子を開けた。





 数日後、一通の手紙が来た。

 切手も差出人の名も無い手紙。

『今夜会いに行く』

 それだけの内容を伝えるだけの手紙は酷くよれていて差出人がどれだけ悩んだか理解したレイはほっと安堵の息をつく。

 賭けに勝った。

 そんな気がレイはした。

「でも…今夜って何時に来る気なのかしら?」

 時間は伝えようとしない手紙に時を待つだけの苛立ちを覚える。

 5分、10分、15分…

 瞬きする時間が1時間にも2時間にも感じる。

 日が落ち星が天を支配し鳥達が眠りにつく。

 やがて時が次の日へと姿を変えるまであと数分となっても差出人は姿を現さない。

「こんな時でも遅刻するわけね…」

 根っからの遅刻好きに諦めに似た気持ちでレイはベッドに腰掛けた。

 不安が膨れ上がる。

 来ないのかもしれない。

 このままさよならなのかもしれない。

 みちるの言葉が影を潜め組まれた手の上に揺れる瞳が落とされた。

 外に人の気配が浮かんだ。

 浮かんだ気配が部屋の前を右往左往する。

 障子がかたんと鳴り開くかと思えばそのまま静寂を保つ。

 ちらりと時計に目を向ければ明日まであと2分。

「一応遅刻はしなかったって事かしら?」

 くすりと笑って腕を組んだレイはそのまま障子が開くのを待った。

 時間は後1分。

 残り時間が解っているのか慌ててるのが手に取るように伝わって来る。

 残り後20秒。

 頬杖を突くレイの指がとんとんと頬を叩く。

 3…2…1…。

 ガラリと障子が一気に開放された。

「は、はーい。レイちゃん久しぶりー」

 空元気な声と引き攣った笑み。

「遅刻よ」

 レイの一言に訪問者の頬が更に引き攣った。

「ご、五分前には来てたのよ」

「嘘おっしゃい」

「うっ…」

 あっさりと見抜かれた嘘に訪問者は身を引いた。

「こんな時でもやっぱり美奈子ちゃんは遅刻するのね」

「遅刻するつもりは無かったのよ」

 肩を竦めた美奈子は後ろ手で障子を閉める。

「用事は何?」

 強気な口調。

 睨むような瞳の中で揺らめく炎。

 安堵と喜びを隠して虚勢を張るレイはすくりと立って腕を組んだ。

 そんなレイに怯みもせずに美奈子は障子に背を預ける。

「…解ってるんでしょ」

「何を?」

「相変わらず嘘つきね」

 くすりと美奈子は笑む。

「でも…それは私も同じね」

 すいと近づいた美奈子はそっとレイの頬に指を添える。

 ぴくんとレイの体が震えた。

「もう…嘘や戯れの時間は終わりにしましょ」

「…どういう意味?」

「全て白紙に戻すって事よ」

 どくんとレイの胸が軋む。

「…白紙…何も無かった事に…するつもりなの?」

「そうよ」

 さらりと告げ美奈子はベッドに腰掛けた。

「全て無かった事にするの」

 消しゴムで文字を消すように美奈子は簡単に告げた一言はレイの胸を貫いた。

 ぬめりのある汗がレイの頬を伝う。

 血の気を失った指がかたかたと震える。

「レイちゃん」

「な…に、よ…」

「大好きよ」

「え?」

 言われた事が理解出来ないレイにすいと美奈子は寄る。

「だから…もう一度きちんと始めましょ」

 レイの手を取り美奈子は瞳を閉じた。

 隠していた想いを込めて言葉を紡ぐ。

「私はレイちゃんの事好き。傍にいたい。一緒にいて、色んな物を見て、色んな事をやって一緒に生きていきたい」

「美…奈子ちゃ…ん」

 瞳を開けた美奈子がくすりと笑う。

「ごめんなさい。あの時は…あのままレイちゃんがどこかに行ってしまう気がしてどうしても留めたかった」

 変よねと苦笑する美奈子にゆらりとレイは首を振る。

「別に…変じゃないわよ…」

「そう?」

「ええ。あなたらしいわ」

 顔を上げたレイは繋ぎ止めたかったのは自分だけじゃなかった事に安堵する。

 心が見えない関係。

 体を重ねてる間だけが全ての想い。

 それは求めて求められていた全く同じ物でお互いの不器用さにレイは苦笑する。

「ねえ…」

 するりとレイの首に細い腕が絡まった。

「あなたは…私の事どう思ってるの?」

 こつんとレイの額に美奈子は額を当てる。

 微かに不安を浮かべる瞳はもう偽らなくて良いんだとレイに伝えた。

 じわりと心が熱くなり体へと熱が伝わる。

 燻る熱を持て余しレイはするりと額をずらし美奈子の肩へと移動させた。

「そうね…」

 きゅっと美奈子の服を掴む。

「好き…よ」

 吐き出す息が熱い。

「あなたの事…大好きよ…だから…」

 抱いてと言えないレイの唇が美奈子を塞ぐ。

 火傷しそうな情に美奈子は目を細める。

「あら…珍しいわね」

「うるさいわね」

 真っ赤な顔のレイにくすりと笑んで美奈子は抱きしめた。

「そんな悪口も大好きよ」

「…悪趣味」

 言ってするりと美奈子の首に腕を絡め、美奈子はレイの腰へ手を回し、二人は恋人のキスを交わす。

 ぷつりと明かりが消え、暗闇の中で影だけが艶を持って蠢き続けた。

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