受話器から聞こえる通話中のお知らせに亜美は溜め息を零した。
静かに受話器を戻し、耳を突く電子の音を遮断する。
「通話中という事は…家にはいるのよね…」
ついと受話器を亜美は指で撫でた。
まことにはまことの時間と考えがある。
一人占めなんてエゴでしかない。
邪魔はしたくない。
邪魔者になりたくない。
そう思っても理由の解らない多忙のまことに寂しさを感じてしまう。
飲み込んでいた溜め息が自然と零れた。
電話のディスプレイに浮かぶ日付は9月9日。
あと1回、月の輝きを受けると1つ年上になる。
「一緒にいたいなんて…私の我侭かしら…」
言って、胸を亜美は押さえた。
とくんとくんと心臓の音が掌に聞こえる。
一定のリズムは特定の人を思うだけで狂う。
とくん、とくん…とくとく、とくとく。
壊れたリズムが切ない。
「忘れられちゃったのかしらね」
自嘲するように呟いた言葉はあまりに悲しくて、響いた声を首が勝手に否定する。
独りきりの誕生日。
毎年の習い。
それも、数年前までの事。
今は祝ってくれる友達がいる。
3回目の月が空に浮かぶ時はレイや美奈子、そしてまことと共にいるだろう。
お手製ケーキもきっと待っている。
それだけで幸せなのに、何故か心は満ち溢れようとしない。
どうしても一針程度の穴を埋める事が出来ない。
美奈子やレイでは埋めれない真ん中に開いた小さな穴。
申し訳無いと思っても揺るがない事実に胸がつくんと泣く。
不意に電話が鳴った。
早い鼓動が大きく跳ねる。
緑に点滅するディスプレイに慌てて目尻を拭い亜美は受話器を取った。
「はい。水野です」
『木野と申しますが…亜美ちゃん?』
訊ねる声に、とくんとリズムが狂う。
「まこちゃん…」
学校以外で聞いた久しぶりの声は優しくて、それだけで満ち足りる。
『夜遅くにごめんね』
「ううん。…嬉しい」
思わず零れた本音を慌てて閉ざした亜美は、電話の先の笑顔が見えた気がした。
『あのさギリギリで悪いんだけど。明日の夜、空いてるかな?』
指定された月が輝く日に、胸に当てた手を握り締める。
「え、ええ…。空いてるわ…」
『本当?渡したい物があるんだけど亜美ちゃん家に行っても良いかな?』
こくりと亜美は頷く。
忘れられていなかった。
覚えていてくれた。
胸の小さな穴が少しづつ萎む。
『…亜美ちゃん?あ、お母さんいる?』
まことの問いに頷いただけの亜美は、声が出ていない事に気づく。
「う、ううん。お母さん夜勤でいないから。大丈夫…」
『そっか。ただ…ね、その…』
言い難そうに口ごもりながらまことは言う。
『ちょっと行かなきゃ行けない所があってさ。何時に行けるか解んないんだ。それでも良いかな?』
「ええ。明日は何も用事無いから」
正確には用事を入れる気が起きなかった。
心の内で呟く亜美に嬉しそうな声が念を押す。
『ほんと?じゃあ10日の間には絶対に行くからさ!だから…待ってて』
余韻を惜しむ約束に、ふわりと亜美は微笑む。
「ええ…。楽しみにしてる…」
『ん…。じゃあ10日の夜に。お休みなさい…』
「…お休みなさい」
囁いて亜美は受話器を置いた。
電話をする前の鬱が欠片ほども無い。
現金な自分に肩を竦める。
零れた笑みを拾うようにカーテンを開け、亜美は空を眺めた。
浮かぶ月の光を雲が横切って遮る。
その流れは歩くよりも早く、走るよりも遅い。
窓を開けると空気に混じる雨の匂いがする。
「また雨かしら…」
徐々に増え行く雲は、晴れた亜美の心にも翳りを落とした。
昼下がりに集会を始めた雲は、学校が終わる頃には太陽を完全に隠し、日が沈んだ今は完全に世界を濡らした。
鈍色の空から降り注ぐ雨は冷たく地を濡らし、開放された窓から亜美の部屋に侵入する。
暗く染まった地面に人影はいない。
サッシを弾く雫に、息を吐いて亜美は窓を閉めた。
カーテンを引き、背を預ける。
「何時になるか解らないって言ってたけど…」
時計の針が無言で10時を刻み、電話に視線で問うと黙止された。
「他の用事でも出来たのかしら?」
言って、有り得ないと亜美は思う。
連絡も無しに、約束を違えるまことではない。
嫌な予感が胸を渦巻く。
「まさか、事故にあったんじゃ…」
いくら運動神経が良くても避けれない事故は多分に考えられる。
口元に手を当て、亜美は電話を見つめた。
掛けてみようか躊躇い、息を吐いてその場に座り込む。
今日も学校が終わると直ぐにまことは帰った。
『また夜にね』
そう言い残して走る背中に月が昇るのを楽しみに手を振った。
今別れても数時間後には会える。
そう思って寂しさを飲み込んだのに傍にいない。
かちりと動いた時計の長針に亜美は膝を抱える。
「あの様子だと多分どこかに出掛けて、その後に来るつもりなのよね…」
事故だとしても一人暮らしのまことでは繋がらない可能性が高い。
冷静に考えて電話を見上げた亜美は掛けるのを諦めた。
くっと膝を抱きしめる。
電話のコール音はあまり好きじゃない。
待っている時間に焦りを感じ、何故か不安を覚える。
理解し難い焦燥感や寂寥感がやけに乾く。
「どうして…いないの…」
待つのが辛い。
沈黙する時間が怖い。
晴れ渡らない亜美の心に暗い雲が立ちこめる。
遅い梅雨を迎えるように雨が降り注ぐ。
滴る冷たさが亜美の手の甲を濡らした。
霧がかった瞳の先で無情な時計は歩みを止めない。
膝に額を擦りつける亜美の耳元でかちりかちりと固い金属が時を奏でる。
空を冷たく濡らす水音に膝を抱える亜美の腕は寒い。
どれくらいそうしていただろうか…。
ゆっくり亜美は顔を上げた。
時計の針がまもなく一番上で重なろうとしている。
約束の日が終わるまであと3分。
「すっぽかされちゃった…」
ぽそりと亜美は呟いた。
「考えてみたら久しぶりよね。一人の誕生日なんて」
ゆっくり腰を上げる笑みは自嘲に近い。
固まった体が大きく背筋を伸ばす。
はぁと息を吐いて、部屋を亜美は見回した。
音も生き物の気配も無い自分の部屋。
暫く遠かった孤独が今は隣に座っている。
カレンダーの赤い丸が酷く空しい。
美奈子やレイ、そしてまことと出会ってからは一度足りとて一人で過ごす事は無かった。
「だからかしら…」
声が震え掠れる。
「こんなにも寂しいのは…」
息する事すら適わない痛み。
何も変わらないのに。
日常と同じなのに。
新たな生を受けた日。
それだけで、まこととの約束だけで、引き裂かれるように胸が痛い。
一番上で重なる時計の針を亜美は目を逸らす事無く見届ける。
「終わっちゃった…」
一日が過ぎた。
そう声に出すと、諦めがついた気が亜美はする。
クローゼットを開け、昨日と同様にパジャマを取り出す。
「お風呂入ってもう寝なきゃ」
言って、亜美は浴室へと向かった。
居間を通り過ぎ、台所へ差し掛かる。
不意に凄まじい音がした。
思わず亜美の肩が竦む。
「な、何かしら?」
滑り込むような、大荷物を引き摺るような音がしたものの部屋の中は異常が無い。
念の為に全ての部屋を覗いたが、どの部屋も至って平穏な静寂を保っている。
「じゃあ…外?」
浴室にパジャマを置いて忍び足で亜美は玄関へ向かう。
鍵を開け、扉の隙間からそうっと覗くと廊下で寝ている人がいた。
「ま、まこちゃん!?」
寝そべる頭で揺れる見覚えのある栗色のポニーテールに亜美は慌てて駆け寄る。
「い…たた…」
ゆっくり起き上がるまことは、肩から転がったのか二の腕を擦った。
胸には大事そうに丸まった上着を抱えている。
上着を守って咄嗟に転がったように亜美には見えた。
「まこちゃん、大丈夫?」
「あ、亜美ちゃん。…すべちゃった…」
明かりを乱反射させる廊下はじっとり濡れている。
「怪我は無い?」
「うん。平気平気」
照れ笑いしながら立ち上がるまことに手を貸した亜美はその冷たさに驚いた。
よくよく見れば、ばけつの水を被ったようにまことの全身は濡れている。
「まこちゃん傘は?」
膝の埃を叩いて払うまことに亜美は問う。
「持たずに出掛けちゃってさ。んで、そのままこっちに来たから」
失敗とまことは笑う。
「そのままだと風邪引いちゃうわ。待ってて直ぐタオル持ってくるから」
「亜美ちゃん待って」
部屋へと駆け出す亜美の腕を取ってまことは引き止めた。
「そんなのは後で良いよ。それよりも時間無いから先に渡したい物があるんだ」
丸まった上着をまことは丁寧に解く。
「濡れてないと良いけど…」
出てきた蒼いビニル袋は、絞れそうな上着に反して水滴一つ付いていない。
「良かった。無事みたいだ」
ビニル袋を撫で、安堵したまことは亜美に差し出す。
「誕生日おめでとう」
「…え?」
目を瞬かせる亜美の手を取りまことは蒼のビニル袋を乗せる。
「どうしてもあげたい本があってさ。でもかなり前に発刊された本だから探すのに手間取っちゃって…」
「それで…最近忙しそうだったの?」
問う亜美にまことは苦笑した。
「ごめんね。ほったらかしにしちゃって」
寂しさを読むまことに頬を染めた視線が手の中の本へと落ちる。
袋越しに伝わる固さはハードカバーに近い。
大きさは教科書に近く、厚みは丁度人差し指の第一関節に嵌まる。
「…開けていい?」
「うん」
折った袋の口を留めるテープを指の腹で丁寧に亜美は弾く。
取り出した本は深い海を泳ぐ鰯の群れが、白い小島の近くで遊んでいる表紙だった。
「空の名前…」
表紙に書かれたタイトルを亜美は読んだ。
まことを見ると微笑まれ、誘われるように亜美は捲る。
空の名前。
名の通り、本の中は様々な空の表情で一杯だった。
暖かく目に染みるようなオレンジの微笑み。
泣き出しそうな曇った悲しみ。
稲びく雷光を躍らせる大きな怒り。
それは太古の昔から、誰も知らない未来まで続く不変の彩。
何処までも続く永遠の色彩に感嘆の息が亜美から零れる。
「気に入ったみたいだね」
雨音を消す風の声は、限りなく澄んだ空と同じで、ぼんやりと亜美はまことを見つめた。
「これなら何時でも空が見れるよ」
「え?」
目を瞬かせる亜美に暗い空を見上げてまことは笑う。
「こんな雨の日でもさ、綺麗な空が傍にいる」
本物じゃないけど、と零された苦笑に亜美は空を抱きしめた。
何時かの気の無い呟きを拾ったプレゼント。
亜美本人さえ正確には覚えが無い。
なのに、まことは心のノートに認めていた。
そして、実行してくれた。
「正直、見つかるかどうか賭けだったんだ」
頬を掻いてゴールまでの道のりをまことは垣間見せる。
「少し古い写真集だから。現にあたしの知ってる本屋には無くてね」
腕を組み、ふっとまことの肩が竦む。
「美奈子ちゃんに聞いた本屋に今日行ったんだけど、これがまた遠くてさ」
失敗談の一角が笑いに混じって落ちた。
「しかも知らない土地だったから道に迷ちゃった」
近くの雨どいを打つ雨音が亜美の耳を撫でる。
「その上雨降ってくるし流石に焦ったよ」
腕には元来の草色が雨で濃く染め直された上着。
それ以上に濡れ鼠のまこと自身。
髪からは未だに水滴が滴り落ちている。
「風邪引いたら…どうするのよ…」
「ん?そしたら亜美ちゃんに看病して貰うから大丈夫」
けろりと放って亜美に額をまことは寄せた。
「遅くなって…って時間!」
がばっとまことは顔を上げた。
「日、日にちって変わっちゃったよね!?」
途中から時間を計る事さえ惜しんだまことは思い出した現時刻を慌てて確認しようと周りを見回す。
しかしマンションの廊下に時計がある訳も無く、手首を回る時計へと目を向けた。
「大丈夫よ」
そっと亜美の手がまことの時計を覆う。
「まだ、日付は変わってないわ」
ふわりと微笑む亜美にきょとんとまことは目を瞬かせる。
「え、でも…」
単純計算でもぎりぎり、もしくは過ぎている。
だが、はっきりと亜美は告げた。
「10日のまま」
「…そっか」
腕を下げ、まことが時計を遠ざける。
察した心がありがとうと囁き、時間をほんの少しだけ遡った。
「じゃあ改めて…」
咳払いをまことが落とす。
「亜美ちゃん、誕生日おめでとう」
鈍色の雲から覗いた太陽の微笑みに、亜美の心が健やかに晴れ渡った。
HAPPY BIRTHDAY TO AMI…



