空-1-

夏の盛りが終わり涼しい風が吹き始める頃、海のような空も穏やかな流れとなり、堂々とした入道雲は、細かい鰯の群れへと変化した。

 焼きつく暑さだった太陽が柔らかく綻び、朗らかな光が溢れる。

 風の仕草も、表情の変わる季節も、この国独特で、色々な情を見せる世界に生まれたのが日本で良かったとまことは思う。 

 しかし、最近は鰯も鈍色の雲に隠れたまま姿を見せない。

 肌に纏わり付く空気に過ぎた筈の雨の季節を感じる。

「なーんか、梅雨に逆戻りしたみたいだ」

 見渡す限り鈍色の雲に、BGM代わりにつけていたテレビの天気予報が胸を張った。

 ベランダのサッシに持たれ掛かり、外を眺めるまことにテレビが暫く雨と告げる。

「ちぇ」

 片膝を抱え、つまらなさそうにポニーテールが揺れた。

少し不機嫌そうな唇に、部屋の中央のテーブルで本を読んでいた亜美が苦笑する。

「最近雨の日、多いわね」

 しおりが挟められた本が閉じられた。

「うん。梅雨よりも多い気がする」

 実際、梅雨明け宣言の後から梅雨はやってきた。

 日々の予報を無視する通り雨のような豪雨は、気象予報士を悩ませている。

 頭を抱える予報士もさることながら、当たっているのか間違っているのか読めない情報にまことの洗濯物と憂鬱な気分も無くならない。

「亜美ちゃんは雨の方が好き?」

 ひょいと空から顔を戻して水の守護星にまことは問いた。

「嫌いじゃないけど、どちらかと言うと晴れの日の方が好きよ」

「あ、そうなんだ」

 意外そうなまことに亜美は続ける。

「真っ青な空って気持ち良いもの」

 同意見に少しまことの気分が浮上した。

 体を起こして大きく両手を広げる。

「だよね。こうパァーと爽快になれるって言うかさ、体を動かしたくなるっていうか…うん。気持ち良いよね」

 身振り手振りで青空をまことはイメージさせた。

「ええ。目の前が開けた気分になるの」

「うんうん」

 解るとまことは頷く。

「それから泳ぎたくなるわ」

 空に浮かぶ海は広く澄み切っていて、小さな白い島がぽかぽかと浮かんでいる。

 島で一休みしながらどこまでも泳いでみたいと亜美は思う。

「はは。亜美ちゃんらしいね」 

 言って、少し考えたまことがぽつんと付け足す。

「あたしも遠泳は得意だよ」

 瞬きした亜美の顔が暗の意味にぽんと赤く染まった。

 思った通りの反応に、素知らぬ顔が言う。

「今度、競争しよっか?」

「え、ええ…」

 俯いて顔を隠す亜美に、気づかれないよう静かな笑みが零れる。

「でも、それは来年の楽しみだね」

 言って、準備運動するようにまことが、膝を伸ばして前屈で体を解す。

「もう寒くなるし、クラゲに刺されたくないもん」

 お盆後の波間に漂う白い頭は海坊主を思わせる。

 触れれば怒りを買い、体が痺れる。

 経験があるのか、痛そうに眉を顰めてまことは太腿を擦った。

「そうね」

そろそろ立ち上がり、亜美がまことへと歩む。

 伸ばされた膝の横に座り、亜美は空を眺めた。

 鈍色だった空が白いような灰色のような雲で銀色に光っている。

 よく見ると霧雨が降り始めていた。

「それに、こんなお天気だと海は難しいわ」

 太陽の位置さえ掴めない真昼。

そこに在るのに見えない存在は無いに等しくて、銀色の光だけが残像を繋ぎ止めている。

寂しい。

 そんな思いに駆られて、亜美はそっとまことを見つめた。

「ん?」

 視線に気づいた瞳がどうした?と問う。

 暖かい瞳の光が亜美を見つめ返し、寂しさをやんわりと包んだ。

「…ううん。何でも無いわ」

 赤味の増した頬がふるりと首を横に振る。

「そう?なら良いけど」

 首を傾げるまことに微笑んで、少しだけ体をずらし亜美が寄り添う。

「ね、最近は曇りか雨ばっかりで寂しい?」

 亜美の心臓が跳ねた。

 胸に募った寂しさを抱き締めてくれた本人に、今更寂しいとは言えない。

でも寂しくないと口にする事も出来ない。

瞬時に回転した頭脳が、答えを見出せないまま白くなる。

 機能停止した体の代わりに上ずった声が自然の成り行きにバトンを託した。

「で、でもお天気はどうする事も出来ないから…」

「そうだよなー」

 亜美の焦りに気づかなかったのか、溜め息をついてまことが空を見上げる。

頭の後ろで両手を組む変わらない姿勢にほっと亜美は胸を撫でた。

「人間にはどうする事も出来ないよな」

 人の手の届かない自然は気紛れらしく、最近は御機嫌斜めのようだ。

 そんな気難しい自然が嬉しいのかベランダの植物は、綺麗な花を咲かせている。

 しかし、何時もより多めの水に頭を垂れる物憂げな葉はまことの心配を誘う。

「難しいね」

 晴天と雨天の関係はどちらかが強過ぎても弱過ぎても難を残す。

 その加減はやはり天の気紛れで、人には永遠の謎だ。

「そうね。今年は水不足にはならないけど、色々な地方で河が氾濫してるみたいね」

 亜美に応えるようにテレビが、局地的な豪雨による被害を語る。 

 見れば淡々とした口調のキャスターの後ろで、自衛隊が川縁に土嚢を積み上げていた。

「氾濫か…」

 その場しのぎの堤防さえも飲み込みそうな水の勢いに、身近な人の怒った顔がまことに浮かぶ。

 身震いが走った。

「まこちゃんどうしたの?」

「や、何でも…」

 そぅっと視線を亜美から外してまことがぽつりと呟く。

「あまり怒らせないようにしたいなーなんて…」

「怒らせる?まこちゃん、河の氾濫の話よね?」

 首を傾げる亜美にふるふると首を振ってそれ以上の追求が無い事をまことは祈る。

 その願いが天に通じたのか霧雨が止んだ。

「今度青い空が見れるのは何時かしらね」

 身を乗り出すように銀色の雲を見つめる亜美にまこともまた空を眺める。

「青空か…」

 まことの呟きに、再び降り出した雨は、先刻よりも強かった。

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