「な゛んで、み゛ゆぎはなづみ゛の風邪が移らないのよ゛~」
鼻まで覆う大きなマスクを付けた頼子は、これまた目一杯の鼻声
で美幸に聞いた。
「聞かれても、私にも解らないわよ」
「今、交通課で無事なの゛は、み゛ゆぎだけよ゛~」
言って、咳き込む頼子の顔はやや赤い。
多少熱もあるのだろう。
「私だぢはごんな゛に苦しい思いしてるのに゛、み゛ゆぎだけずる
い~~」
「あのね。ずるいとかそういう問題じゃないでしょ」
「でも、確かに不思議よねー」
この状況の元凶である夏実が言った。
「ちょっと夏実まで何を言い出すのよ」
頼子に同意する夏実を美幸は恨めしく思う。
「だってさ。私ですら風邪を引いたんだよ?なのに美幸だけピンピ
ンしてるんだもん」
「でしょでしょー。み゛ゆぎだけずるいど思わな゛い?」
「ずるいとは思わないけど。不思議ではあるわね」
深く考え始める二人に美幸は溜め息をついた。
実の所、美幸自身が一番不思議に思っている。
夏実に風邪を引かせたウイルスはそれ相応に強力で。
数十分接触しただけの頼子と葵を媒介にして交通課全体を襲った。
頼子や葵は元より、課長や屈強で名高い白バイ組にすらマスクを
付けさせた。
交代で休みを取る事も検討されたが、人数が多過ぎてそれすらま
まならない。
お陰で現在の墨東署交通課は通常業務をこなすのがやっとの状態
だ。
その状況下で美幸だけが健康を保っている。
本来ならば公私共に一番夏実の近くにいる美幸が真っ先に倒れて
もおかしくないのにだ。
「あ、もしかして何とかは風邪を引かないってやつ?」
「夏実、怒るわよ」
信じられない結論に辿り着いた夏実を思わず美幸は睨む。
「日頃の行いの違いでしょ」
夏実や頼子が不思議がるのは最もだが、だからといって健康であ
る事を批判される筋合いはない。
「もしくは夏実の傍にいる私には免疫が出来てたのよ」
付き合いきれなくなった美幸は有り得そうな理由を適当に付け加
える。
「免疫…。おーなるほどぉー」
「やっぱりずるい゛~。そんな゛の持っでるな゛ら私にも分けてく
れればいいの゛に
~」
手を叩いて大仰に納得する夏実の隣で頼子はずるいを連発した。
「分けられる訳ないでしょ。医者じゃないんだから」
「ずるいずるいずるい~~」
「ずるいって。あのね」
「はいはい。頼子もそこまでにしときなって」
駄々を捏ねる頼子の肩を叩いて夏実は言う。
「引いちゃったもんはしょうがないじゃない。諦めなって」
「う゛~。なづみ゛のせいな゛のに…」
「悪かったって。治ったら奢ってあげるから」
「……ほんどに?」
「本当本当。だから美幸に絡んでないで頼子も仕事終わったなら帰
りなって」
「う゛~~。解った……」
完治後の奢りに釣られた頼子は渋々と引き下がる。
「約束だからね゛」
「あーはいはい」
くしゃみを一つを残してロッカールームに向かう頼子に、ようや
く解放された美幸がほっと安堵する。
「夏実、ありがとう。助かったわ」
「いいって。元々は私のせいなんだし」
笑って夏実は言う。
「さて、私達もそろそろ帰りますか」
「頼子が帰ってからね」
また文句を言われたら堪らない。
時間をずらして帰路に着こうとする美幸に夏実は声を出して笑っ
た。
ヨタ8を駐車場に止めて、美幸と夏実はマンションのエレベーター
に乗った。
上階まで上がり、部屋の鍵を美幸は開ける。
「うーん。今日も疲れたー」
「あ、夏実。ちょっと待って」
大きく伸びをして部屋の奥に行こうとする夏実を美幸は呼び止め
た。
「部屋に入る前に洗面所で手洗いと嗽してって」
「手洗いと嗽?何で?」
「交通課があの状態だから予防しておかないと。何時移されるか解
らないもの」
「でも、私はもう完治したし」
「駄目。また貰う可能性も0じゃないんだから」
「えーーー」
「十分も掛からないんだから文句言わない」
面倒臭がる夏実の背を押して、洗面所へと美幸は向かう。
鏡台の上部に取り付けた棚から嗽薬を取り、洗面台にある夏実専
用のコップに少量注ぐ。
「うわ」
赤茶色の液体と薬独特の匂いに夏実は顔を顰めた。
「大丈夫よ。見た目程、味はしないから」
夏実の気持ちを察しながら、美幸は薬を水で薄める。
「はい。夏実」
色は柔らかくなったものの、匂いは全く変わっていなくて。
「…やらなきゃ駄目?」
手渡されたコップに眉根を顰めた。
「お夕飯抜きで良いならしなくても良いわよ」
「そりゃないよー…」
コップと睨めっこする夏実は口に含む前から苦虫を噛み潰してい
る。
迷う横顔を暫く見つめていると、意を決した夏実が嗽薬を煽った。
眉はヘの字のままだ。
それでもお夕飯の為に、嗽をしている。
子供のようだと美幸は思う。
喉の奥で微かに笑って、美幸もまた自身専用のコップに溶いた嗽
薬を口に含んだ。
数回に分けて丁寧に喉の洗浄をする美幸とは裏腹に夏実は2回で
嗽を止めた。
「うぇ…」
不味そうに口元を押さえる夏実に美幸は問う。
「そんなに変な味がした?」
「しないけど気分的にやっぱり嫌…」
濯いだコップに水を注ぎ夏実は一気に飲み干した。
「美幸は何でこんなのが平気なのよ」
「平気って訳じゃないけど、健康に気を使うは悪い事じゃないでしょ
」
言って、使い終えたコップを美幸は濯ぐ。
「それに交通課で無事なのは私だけでしょ?予防するのに越した事
はないわ」
「頼子に言ってた免疫は?」
「あれは方便。予防接種してる訳じゃないもの」
「してるじゃない」
きっぱりと夏実は言った。
まさか、そこを否定されると思っていなかった美幸が不思議そう
に夏実を見つめる。
「私、病院に行って――」
ないわよ。と続けようとした唇が夏実に囚われる。
「ね?毎日予防接種受けてるでしょ」
意地悪な笑顔の意味を一拍の間を置いて美幸は解す。
「あ、あのねっ」
「こういうの何て言うんだっけ?接触感染?」
「それを言うなら経口感染」
「あ、それそれ」
「って、そうじゃなくてっ!」
至って冷静に聞く夏実に釣られて答えた美幸は思い出したかのよ
うに慌てる。
「キ、キスが予防接種になる訳ないでしょ!」
「解らないわよー?引き始めから受けてたらなるかもしれないじゃ
ない」
「ならないっ!」
「そう?」
「そうよ!」
「ふーん。じゃあさ」
腕を組んだ夏実が不意に身を屈めた。
下から覗き込むように美幸を見つめる。
「な、何よ…」
「もう予防接種はいらない?」
「―――っ!?」
美幸は絶句した。
予防接種にならないと言っただけであって、行為自体を否定した
つもりはない。
「な、何でそうなるのよ……」
「美幸はいらなさそうだから、ちょっと聞いてみようかなと思った
だけなんだけど」
言う夏実の瞳は輝いていた。
例えるなら悪戯を試みる子供と同じ瞳をしている。
「で、どう?」
「どうって……」
返事に窮した美幸は口ごもる。
己がそういう行為に不慣れな事は自覚している。
もっと言えば、夏実の積極さに助けられると言っても良い位だ。
それを止められるとなると―――。
「……夏実」
「ん?」
「交通課を、全滅させる…気?」
遠回しの返事を解しない程、夏実は鈍い人間ではない。
と、いうより最初から答えはお見通しの筈だ。
「あー、そりゃまずいわ」
だから、呆けた口調のしたり顔が悔しくて。
「んじゃ、全滅にしないように努力しましょかね」
もう一度唇を重ねようとする夏実の鼻を美幸は摘む。
「調子に乗らないの」
言う、美幸の頬はほんのり赤く染まっていた。



