学園の端に建てられた茶室。
小さな庭園に囲まれた茶道の道は四季折々の草木を楽しめるように趣向が凝らしてある。
夏は紫陽花。秋は紅葉。冬は紅梅。
そして、春は桜。
朗らかな陽気に誘われるように障子窓を開放すると、太い幹を地に根付かせた桜が咲き誇っていた。
黄昏る枝が、風に花吹雪を散らす。
ひらりひらり。
舞う度に地面が薄紅に染まる。
「思い出しますなぁ」
桜を愛でつつ、静留は掌の茶器を回した。
香り豊かな苦味を舌の上で堪能する。
「あの春の日…」
言って、切なく笑む。
恋をしたあの春の日も桜が舞っていた。
風に流され、匂いに誘われたその先には出会いがあった。
「あの頃よりも柔らかになりはりましたが、根っこは今と同じ」
膝の上で茶器を両手で包み、静留は瞳を細める。
「意地っ張りで、照れ屋で…でも…」
腕を組んでそっぽを向く思い描いた人物にくすりと微笑む。
「強いどすなぁ」
強い光を宿す瞳は、太陽のそれと同じで、真っ直ぐに静留の心を射抜いた。
「うちなんかの邪まな想いさえ受け入れて」
全てを知っても変わらないその眼差しを羨ましくも愛しく静留は想う。
「今も、傍にいてくれはる…」
ゆるりと回る茶器は彼の人の温もりに近く、何時までも抱いていたい。
「負けっぱなしやね」
息を吐くように静留は微笑んだ。
「出会った瞬間から、祭りの終結まで」
忘れる事の出来ない唇の感触を求めて、指が茶器の口を辿る。
「うちは負けっぱなし…」
目覚めのキスは王子からでは無くお姫様からだった。
静留のチャイルドである清姫の死は、同時に己の死を、なつきの消滅を意味する。
だが、なつきは止めを刺した。
自らの手で、躊躇いも見せずに。
命すら捨てた応えに、共に逝ける事がどれほど幸せだったことか。
「こんな風に思ってるの知ったら、あんたは怒るんでっしゃろなぁ」
くすくす笑う静留に脳裏に浮かんだ一途な眼差しが馬鹿と叫ぶ。
「ほんに…」
視線を上げ、静留は桜を見上げた。
「あんたはこの桜のような人やね」
強く、潔く。
そして儚い。
「なぁ…なつき」
愛でるように囁く静留に、けたたましく躙口が開いた。
「静留!」
「な、つき…」
花びらで無く、本物の来訪に静留が頬を染める。
「匿ってくれ!!」
「え?」
礼を欠いたまま茶室へ体を滑らせ、なつきはけたたましく躙口を閉めた。
そのままわたわたと膝で走り、状況の解らない静留を盾にして身を隠す。
「どないしはったんどすか?そないに慌てて」
怯えた猫にのんびり静留は問いた。
「舞衣の奴が…」
全速力で走ってきたのか、なつきの息はかなり乱れている。
「鴇羽さん?」
きょとんと静留の首が傾ぐ。
「鴇羽さんが何ぞしたんどすか?」
「あいつ…」
静留の制服の襟を掴み、真剣になつきは訴える。
「私に、料理を教えようとするんだ…」
「あらぁー」
「一人暮らしなんだから御飯くらい作れないでどうするの!
不経済でしょ!?とか言ってあいつ無理やり…」
戦慄くなつきに、静留は楽しそうにパンと手を叩いた。
「ええ事やないの」
「良くない!」
即答するなつきに、茶器を静かに釜の手前へ静留は戻す。
「何で?なつきも女の子やさかい。料理覚えるのもええんちゃいますの?」
「静留は舞衣の恐ろしさを知らないからそう言うんだっ!!」
畳を叩いて断固反対するなつきを静留は不思議そうに見つめた。
「あいつはな…」
畳を千切るようになつきは拳を握る。
「…凄いスパルタなんだ…」
ぷっと静留が吹き出した。
「笑うな!本当にスパルタなんだぞ!!」
なつきが真剣になればなるほど静留の笑い声は高くなる。
「せ、せやかて…」
どうしても止まない笑いの虫に赤い顔でなつきは立ち上がった。
「もういい!邪魔したな」
身を翻して、茶室を後にしようとするなつきの手を静留は取る。
「まぁまぁ。そう怒らんと」
「静留が笑うからだろ!」
怒るなつきに静留の喉が震えを止めた。
「もう笑わんさかい。だから…な?」
ゆるりと手を引く静留に、渋々となつきは腰を降ろす。
「もう笑うなよ…」
「はいな」
釘を刺すなつきに静留は嬉しそうに笑んだ。
「でも、なつきの手料理うちは食べてみたかったわ」
「静留…」
残念と、溜め息をつく静留に俯いて、なつきは髪を後ろへと払った。
そして、真面目に問う。
「死ぬ気か?」
自分を知っているというべきか。
自分ぐらい味方してやれというべきか。
「言っておくが私は食べんぞ」
腕を組み、断言するなつきに静留の微笑が苦笑に変わる。
更に絶対にと付け足され、無言で静留は茶入れを取った。
蓋を開け、茶匙で豊かな緑を先刻まで使用していた茶器に移す。
「その話はまた今度にしましょか」
言って、鉄釜から掬った湯と共に静留は話しを流した。
ふん、となつきが肩を揺らす。
洗練された茶筌が小気味良い音を立てる。
「ここなら鴇羽さんもそう簡単には来ないでっしゃろ」
細かい泡が均等に立ち、豊かな香りに深みが増す。
「ゆっくりしてったらええよ」
のの字を描くように茶筌を止めた静留がなつきにお茶を薦める。
「あ、あぁ…」
作法を極めた物腰に、惑いながらなつきは茶器を取った。
見よう見まねで茶器を回す手つきは危なっかしい。
「そないに無理せんでもええんよ」
くすりと静留は微笑む。
「お茶は楽しく飲むもんやからな」
「そ…うか」
素直に回すのを止め、なつきは一気に茶器を傾けた。
喉を通る苦味に眉が顰まる。
「苦い」
「そういうもんや」
率直な感想にくすくす静留は静かな笑い声を上げた。
一口で根を上げたのか、茶器を横に置いてなつきは壁に持たれかかる。
窓からぼんやり空を見上げ、そよぐ風に前髪を騒がす。
舞う花びらは暢気で和らかだ。
脳裏を焦がす戦いの後はもう何一つ残っていない。
「…平和だな」
鳥の囀りに耳を傾けると、真昼の熱が見せた陽炎だったのかとなつきは思う。
だが、全ては現実で、忌まわしい宿命は二度と回らずとも、忘れる事も無い。
「あの頃を思い出すと今の方が幻のようだ」
切ない夢現な呟きに、すいと静留は立ち上がった。
空から目を離さないなつきの前で膝を折り、その視線の先を追う。
「…せやね」
迷い無い太陽の輝きは、一途で何者にも汚されない。
「せやけど」
月と運命の間に浮かんだ赤い星とは無縁の眩しさ。
痛い光に静留はなつきへと視線を戻す。
「あの戦いがあったから…」」
そっとなつきの頬に触れる。
柔らかい指の感触になつきがゆっくり静留を見つめた。
「解ったものも沢山あるんやで?」
人を想う気持ち。
人を傷つける痛み。
運命に抗う強さ。
そして、己自身の心。
「そうだな…」
ふっとなつきが笑む。
「きっと私達には必要だったんだろうさ」
言って、静留の手になつきは掌を重ねた。
「例えどんなに辛い戦いだったとしても…な」
「なつき…」
ゆっくり静留が顔を近づける。
なつきの髪がさらりと肩を流れた。
「って、何をする気だ!」
重なろうとした静留の唇をなつきは慌てて掌で覆った。
「…つれないわぁ…」
邪魔な掌を握り締め静留は呟く。
「あの時はなつきからしてくれたやないの」
たった一度だけ見せた情を言われ、なつきの頬が真っ赤に染まった。
「あ…あれは、お前を止める為に…」
「なつきはうちが嫌い?」
敬意を表するように。
なつきの手の甲に静留は唇を寄せる。
「…卑怯だぞ…」
指先よりも柔らかい触れ合いにぴくんとなつきの肩が跳ねた。
「そうや」
静留が瞳を細める。
「うちは卑怯者や」
言って、なつきの手首に静留は歯を立てた。
「それはなつきが一番知ってるやろ?」
「…っ!」
刺すような痛みになつきの顔が歪む。
「うちはなつきが好きどす」
瞳が心の真実を紡ぐ。
「せやから…」
なつきの顎に静留は指を掛けた。
静留の首がゆるりと傾ぐ。
「静…」
「会長さーん。なつき来てませ…ん」
躙口がカラッと開いた。
「…か…ぁ…」
逃げ込ませた張方人の出現に、静留の動きが止まった。
「舞、衣…」
追跡者の名をなつきは呟く。
「あ…え、と…」
惑う舞衣に、なつきは慌てて静留を押し返した。
「ご、誤解するなよ!これは静留が…!!」
なつきの弁明を聞きながら、舞衣は伺うように静留を見た。
無言の圧力に背がそぞろ立ち、
どう転んでも邪魔者にしか映らない立場を嫌というほどを自覚させられる。
「あ、あの会長さ…」
「…鴇羽さん」
ゆらりと静留は立ち上がった。
「うちのなつきに何ぞ用でもありました?」
『うちの』を強調する微笑みは瞳だけを笑わせない。
身震いした全身が、本能に従って逃げの一手を決め込む。
「ありません!ごめんなさい!!」
言い終わらないうちに、躙口が怒涛の勢いで閉まった。
「待て舞衣!」
伸ばされたなつきの腕に、躙口の木枠が空しい振動を響かせる。
静留となつきを隔絶し、一人外へと逃げた舞衣は躙口の前で胸を押さえた。
「こ、怖かった…」
一秒で一日分くらい鼓動が脈を打っている。
「本っ気で…怖かった」
寿命が三年は縮んだと舞衣は思う。
「どうした舞衣?」
真っ青な顔で荒い息を吐く舞衣の隣で命は首を傾げた。
「なつきも静留もいなかったのか?」
言って、躙口に手を掛ける命に舞衣は叫ぶ。
「命駄目!」
鋭い静止に命の肩が飛び上がる。
「舞、舞衣?」
「今その扉開けたらあんた…」
がっしりと肩を掴み、真剣な面持ちで舞衣は告げる。
「今度こそ確実に死ぬわよ」
死への忠告に命が息を飲む。
「そ、そうなのか…?」
神妙に頷く舞衣に冗談の気配は無い。
「良い?静かにここを離れるの。私は命を失いたくないわ」
「わ…解った…」
こくりと命は同意した。
息を殺し、草一つ踏むにも気を張り舞衣と命は茶室を離れる。
飛び石が消え、コンクリートで固められた道が程無く現れる。
立ち並ぶ校舎が近くなっても二人は言葉一つ交わさない。
校舎を抜け、中庭に出た所で、ようやっと舞衣が大きく息を吐いた。
「ここまで来れば大丈夫でしょ」
肩に入った緊張が解かれる。
「命。もう喋っても良いわよ」
「う、うむ…」
許しを得てもまだ命の眉は攣り上がったままだ。
強張ってしまった顔を両手でうにうにと命はマッサージする。
ほっと眉が緩む。
足音を発して、普通に歩き出す舞衣に命は連いて行く。
「なぁ舞衣」
優しい笑顔に戻った舞衣を命は見上げた。
「あの中に何があったのだ?」
ひくりと舞衣の頬が痙攣する。
純真無垢な瞳に何を、どう言えと、言うのだろうか。
「お願いだから何も聞かないで…」
頭を抱えるように舞衣は額を押さえた。
そして、代わりに疑問を口にする。
「それより命に聞きたい事があるんだけど」
「何だ?」
見上げる瞳に、躊躇いがちに舞衣は問う。
「戦いが終わって…。その、チャイルドは皆…もうここにはいないのよね?」
「その筈だ」
両の掌を命は広げた。
肌身離さず持っていたエレメントは、もう手元に無い。
兄と共に果てる事を選んだのを最後にこの世界から消えた。
再び持つ事も無いだろう。
「在るべき場所に帰った筈だ」
「そう…よね」
舞衣は空を見上げた。
消えていくカグツチは、最後にさよならと言う様に鳴いた。
空へ舞うように消える姿は美しく、切なかった。
もう会えぬ戦友に、寂しさが募る。
「それがどうかしたのか?」
「あ、ううん。何でも無いの。あたしの気のせいだから。…多分」
静留の後ろで揺らめいたチャイルド。
清姫の姿に何度も舞衣は気のせいと呟いた。
命が危うく開けそうになった死への扉の向こうでは静留が絶好調だった。
「鴇羽さんええ子やねー」
嬉しそうに静留は胸の前で手を合わせる。
「うちらに気ぃ使ってくれはるなんてー」
「あれは威圧したというんだっ!」
とんでもない勘違いに叫んでなつきは訂正した。
「人聞き悪い事言わんどいて下さい。うち何もしてはりませんえ?」
「あのな…」
怯えた舞衣の顔を思い出し、なつきは頭を抱える。
「それよりなつき」
すっと身を低くして静留はなつきの瞳を覗いた。
顎に指を掛け、上を向かせる。
「続き、しましょか」
「しなくて良い!」
迫り来る静留を押し返し、じりりとなつきは後ずさった。
「何でそないにつれないんどすか?うち、寂しいわぁ…」
目元を押さえ、泣くようにしだる静留にひくりとなつきの頬が引き攣る。
「静留…。お前絶対に性格変わっただろ…」
「あら。そんな事あらしまへんえ」
はっきり否定する静留を細まった瞳が、無言で否定する。
くすりと静留が笑んだ。
「ほんとは…ちゃんと解ってますえ」
すっと身を引き、静留は膝を正す。
「うちの好きと、なつきの好きが違う事」
背筋を伸ばし、はっきり静留は口にした。
「きちんと解ってます」
ひた隠しにした気持ちを知られ、力で己の物にしようとした壊れた想い。
その全てを許し、受け入れてくれたなつきの芯の強さ。
「ほんまはこうして傍にいてくれるだけで良いんどす」
もう近寄る事すら叶わないと思っていたのに、今でも頼りにしてくれる。
それだけで幸せだと静留は思う。
「せやけど…やっぱり気持ちは変えれないんどすなぁ」
静かに静留は桜を見つめた。
流れる風に桜吹雪が美しく舞い踊る。
「あの春に出会ったこの気持ちだけはどうしても捨てれないんどす」
胸が熱い。
「あんな目に合わせてもまだ…期待してしまうんや」
静まる事を知らぬように。
鼓動が逸る。
「何時かあんたがうちと同じ好きって気持ちを持ってくれんじゃないかて…」
傾ぐようになつきを静留は見た。
求めて止まない想いが笑みを浮かべる。
「期待してしまうんや」
ふわりと静留の瞳から雫が舞う。
「堪忍…な」
「静留…」
痛そうになつきの眉が顰まる。
膝の上で拳を握り、なつきは俯いた。
「一つ…聞いて、良いか…?」
ずっと抱えていた疑問。
過去の事だと言ってしまえばそれで終わる。
あえて掘り返す必要も無い。
だが、忘れるには重過ぎる有り得たもう一つの結末をなつきは恐る恐る口にした。
「あの教会で、静留は…私を自分の物にしようとした」
恨まれても手に入れると告げられた最期の決戦。
向かって来る傷ついた瞳は他の方法を見出せなくて、もがき苦しんでいた。
「エレメントで動きを封じ、静留は私を…抱き締めた…」
無理やり奪おうとしているくせに、その腕に込められた力は儚く泣いていた。
「…せやね」
罪を認めるように静留が瞳を伏せる。
「あの時、静留はどうするつもりだったんだ…?」
顔を上げ、静留をなつきは見据えた。
「本当はどうしたかったんだ?」
責めるでなく、ただ問うなつきに静留は膝の上で手を揃える。
「答えてくれ。静留」
繰り返すなつきに瞳を閉じ、礼を持って静留は答えた。
「解りません」
「静留!」
ふわりと静留は微笑んだ。
「ほんとに解らないんよ」
制服の襟をなぞるように静留は言う。
「うちの気持ちを受け入れてくれないなつきを殺したかったのか、それとも殺されたかったのか…」
己すら失わせた狂気の答えは今も闇に隠れたままで、思い返しても欠片すら見つからない。
「…もしかしたら」
なつきから目を逸らし静留は自嘲する。
「共に逝きたかっただけなのかもしれまへんなぁ…」
ならば、内なる望みは叶っていたのかもしれない。
否。
叶っていたのだろう。
何も残らない戦いの中で知りたい想いを知れたのだから…。
「ただあの時は、どんな手段を用いてもなつきをうちの物にする」
遠い夜空を見つめるように瞳が愁う。
「それしか考えられなかったんよ」
堪忍と囁く危うい光が、過去を悔いる。
瞳の中でちかちかと際どさが点滅した。
チャイルドの強さは想いの強さ。
清姫の強さを思い出せば、偽りが混じっていない事は明白だ。
「……だけ…」
だからこそ、慰めなどなつきは言えない。
「キスだけだぞ!」
顔を上げ、今の気持ちだけを一息に告げる。
「なつ、き…」
静留の目が瞬いた。
他人には情を見せない頬がなつきにだけ想いを表す。
「ほんまに、ええの…?」
恥らう静留になつきは何故か安堵を覚えた。
「あぁ…」
肩の力が抜け、心が楽になる。
「私は静留が好きだ」
素直に思いが伝えられる。
不思議な静けさに、壊れた教会で対峙した時をなつきは思い出した。
「私の好きが静留と違う意味だとしても」
気持ちは思うだけでは伝わらない。
「大切に想う気持ちは一緒だ」
言葉にして、行動にして初めて伝えられる。
染まった頬が愛しい。
ゆっくりと。
でも軽く。
唇をなつきは寄せた。
「だろ?」
間近で微笑むなつきに、朱色の頬が更に赤く染まる。
「なつき…」
ゆっくりとなつきを静留は抱き締めた。
肩に額を預け、泣き疲れた子供のように甘える。
「…好きどすえ」
静留の背をゆるりとなつきは擦る。
「私も…静留が好きだ」
紡がれる思いは決して交わる事は無い。
でも、同じ想い。
ゆっくり静留は体を離した。
薄れる温もりの代わりになつきの頬に静留は触れる。
ふわりとした幸せが綻ぶ。
「なつき…」
異なる想いの重なる熱を分かち合おうと静留はなつきに顔を寄せた。
額に触れた静留の前髪になつきがゆっくり瞳を閉じる。
そして…
「っ…!待て静留!」
押し返した。
「なつき…」
寸での所で、止められた静留の瞳が切なく揺れる。
「やっぱり…嫌、どすか?」
「ち、違う!そうじゃないっ!!」
俯く静留になつきは慌てて首を振る。
「その…するまえに一つ言っておきたい事があるんだ…」
「言っておきたい事?」
こほんと咳払いを一つ落とし、なつきは赤らんだ顔で言う。
「その、普通にしろ…よ」
普通。
一般的で、でも基準の無い曖昧な表現に静留は首を傾げた。
「どういう意味どす?」
「その…何というか…。静留、何か凄い事しそうだから…」
自分や仲間に行われた静留の経歴と手腕を思い、なつきは視線を逸らす。
「嫌やわぁ」
くすりと静留が笑んだ。
「うちがそないな事する訳あらしまへんやないの」
「…天然のテクニシャンが何を言ってる…?」
口元を押さえコロコロ笑う静留に冷たい瞳が呟く。
「それより…」
ふと、笑うのを止め、静留はなつきの手を取った。
真剣な面持ちで近づく顔になつきの鼓動が一際大きく跳ねる。
「静…」
名を呼ぼうとする唇を静留の人差し指が制した。
「もう…お喋りは無しや…」
ゆらりと静留の首が傾ぐ。
吐息が触れ合う。
瞳を強くなつきは閉じた。
柔らかな感触。
一度だけ覚えのある唇に、なつきは畳に爪を立てた。
軽く重なった唇が静かに離れる。
ゆっくりと、名残を惜しみながら。
遠のいた息に、なつきが瞳を開ける。
間近でぼやける静留の頬は、薄紅色をしていた。
熱が移ったのか、なつきの頬も染まる。
「あまり見るな…」
俯き、なつきは顔を隠す。
こくりと静留は息を飲んだ。
突き上がる衝動が先を求め、急く。
キリっと唇を噛む。
強く抱き締め、情を無理やり殺す。
「痛っ…」
きつい抱擁にそっとなつきは顔を上げた。
瞳が出会う。
カチッと静留の歯が鳴った。
なつきの両頬を掌が包み、上を向かせる。
「しず…っ」
三度目の感触が強引になつきの中へと割り込んだ。
無理やり上げられた顎が呼吸を圧迫する。
畳に爪が引っ掻き傷を作った。
指先が痺れ、体の力が奪われていく。
堪らず、静留の背中をなつきは叩いた。
我に返ったように静留が唇を緩める。
震える足腰になつきは壁に背中を預けた。
「キ、スだけだって…」
「キスや」
静留の手の甲がなつきの頬をゆるりと撫でる。
「キスしか、してまへんえ…」
荒い息をする肩を静留の頬が慈しむ。
焦点の合わない瞳を、白い首筋が誘う。
断れない唇が躍動を吸った。
「…っ!」
震えた体になつきは壁に背を打ちつける。
倒れそうになり、畳に手を突く、なつきの肩のラインを静留の掌が辿った。
「ごめんなぁ」
なつきの胸の膨らみを静留は包む。
「そないな顔、見せられたら…」
ゆらりと静留が揺れた。
「うち…」
持ち上げるように膨らみを押し上げる。
びくっとなつきの体が跳ねた。
「ん…ふ…ぁ」
上がりそうな声をなつきは両手で覆う。
「やっぱりうちは…」
隙の出来た脇腹に静留は手を侵入させた。
そろりと撫で上げられ、なつきの体が竦む。
「静…やめ…」
縋るように腕を掴もうとするなつきの腕を逆に掴み、そのまま静留は押し倒した。
「…なつき」
ふわりとなつきの頬に触れる。
「キスしか…せぇへん、から」
言って、なつきの両手首を静留は畳に押し付けた。
「静留!」
もがいても拘束は緩まない。
耳朶を食む唇がちろりと首筋を舐め上げる。
敏感な部分を的確に捉えられる度になつきの体が反応を示す。
知り尽くされた体が記憶をフラッシュバックさせた。
名を呼ぶ紅潮した頬。
透き通るような肌と赤い唇。
熱を持て余す潤んだ瞳。
うたた寝した縁側で夢見た静留になつきが身震いを起こす。
「やめてくれ!」
腕を振り解き、ブレザーに掛かる手になつきは爪を立てた。
「…なつき」
手の甲に出来た赤い筋が静留を止める。
「頼むから…もう…」
ゆっくりと静留は拘束を緩めた。
「なつき…」
頬を撫でようとした手が躊躇い、握る。
「なつき、なつき…なつ、き…」
何度も切ない声がなつきを呼ぶ。
弱々しい声に縋る想いだけが木霊する。
「静、留」
ぽつりとなつきが呼んだ。
ゆっくり静留が顔を上げる。
見つめる瞳はなつきが思い描いたソレとは異なっていた。
情に孕んだ熱が泣いている。
透き通るような肌は欲を堪え、噛まれた唇に血が滲む。
悦を求めるというより苦しんでいる。
消す事の出来ない燻りをぎりぎりまで捻じ伏せ、それでも求めて止まない気持ち。
泣きながら向かって来た最期のように己と戦い続けている。
「馬鹿だな…」
くすりとなつきが笑んだ。
顔に掛かる髪を指で除き、なつきは静留の頬を両手で包む。
「静留は馬鹿だ」
そっと胸元になつきは静留を引き寄せた。
「そして私も…」
馬鹿だと苦笑する。
「もう、苦しまなくて良いのに…」
静留を抱き、なつきは瞳を閉じた。
「そんな顔、もう…しなくて良いんだ」
後ろ髪に手を差し込み、キスをする。
「なつき…」
ゆるりと顔を上げた静留の頬に口付ける。
「これ以上自分を殺すのは止めよう…静留」
瞼にキスをしてなつきは微笑む。
「お前も…そして…私も…」
「…なつき」
顔を寄せるなつきに、何も言わずに静留は唇を重ねた。
強引で無く、遠慮するように静留の舌がなつきの歯列をノックする。
薄く開いた扉が優しく招き入れた。
チュッと音が立つ。
絡み付く来客はツボを心得ていた。
探るように徘徊し、一瞬の反応すら見逃さない。
朧気になる意識の中で、何所で覚えて来たのかなつきはほんのり気になる。
だが、その疑問も唾液と共に飲み下された。
ブレザーの上からゆらゆら静留が体のラインを辿る。
胸から腰へ、腰から背中へ。
ゆっくりなつきを確かめる。
首元を指先が薄い線を引き、静かにブレザーを脱がす。
中に着ていたパーカーは見た目よりも薄手で、先刻よりも熱が肌に伝わる。
熱い。
裾から手を差し込まれると、その熱は更に温度を増した。
ちりりとなつきの胸が焦げる。
これほどの熱をどれだけの間、持て余していたのか。
返す術の無い自分をどんなに想ってくれているのか。
悲しくなる位、熱が静留の情を教える。
すいと静留が身を屈めた。
パーカーを擦り上げ、露にした肌に口付ける。
そのまま上へ上へと滑る舌先になつきが肩を強張らす。
胸の膨らみを覆う布は、淡い空と同じ色をしていた。
「これ…」
「…静留?」
ふと、手を休めた静留に、薄っすらとなつきが瞳を開ける。
「先日…一緒に買い物に行った時のやね」
嬉しそうな笑みが静留に浮かぶ。
「うちが選んだの、着けてくれてはる…」
深い意味がありそうな物言いに、なつきは顔を真っ赤に染めた。
「静留!」
慌ててパーカーを降ろそうとしても静留が邪魔で降ろせない。
「嬉しい…」
くすりと笑って、静留は掌に収めた。
上の隙間から指を滑り込ませ、柔らかい感触に肌を吸い付かせる。
「っ…ん」
口元を手で覆い辛うじて声を殺すなつきを追い込むように静留は背へと手を回した。
プツッと音がし、空が浮く。
「あの桜と…同い色やね」
囁いて、唇で静留は桜を食んだ。
弾力のある食感をぞろりと舌が舐め上げる。
感覚を直に触れられ、大きくなつきの体が跳ねた。
堪えるように静留の頭を抱え込む。
「し…っ…る…」
荒い息が絶え間なく吐かれる。
知り尽くされた弱点。
巧みな愛撫。
どこをどう攻めれば、どんな反応が返ってくるのか。
全てを把握する動きがなつきを翻弄する。
惑わせ、焦らせ、喘がせる。
すっと静留が身を引いた。
「はぁ…」
静けさを取り戻した波に、なつきは額を押さえ、畳に体を転がす。
ぷちっと釦を外す音が聞こえた。
軽く上半身を起こしたなつきに、リボンがぽとりと落ちる。
ブレザーを脱ぐ静留に、ぎくりとなつきの顔が強張った。
頭で解っていても、未経験の恐怖がどうしても腰を引かせる。
構わず、開襟シャツをはだけさせた静留になつきは息を飲む。
「ま、待て…静留。それは、その…心の準備が…」
じりりと後ずさるなつきに静留の眉が拒む。
「待てまへん…。だって、なつきが…言うたんよ?」
壁に追い詰め、静留はなつきの頬に触れた。
「もう自分を殺すなって…」
言って、唇を重ね、吸い上げる。
「く…ぅ…ん」
強く抱き締め、が肌を密着させる。
体の中で鼓動が反響する。
「暖かいどすなぁ…なつきは」
なつきの胸に擦り寄り静留は歯を立てた。
柔らかい唇が桜の突起を転がす。
「…っ…」
力の入らない指先が静留の髪に絡み、そして解けた。
「…なつき。ええ、どすか…?」
「良いって…何が…?」
高ぶった熱の呆けた問いに、するりとなつきの太腿を静留は撫でた。
察したなつきから一気に熱が引く。
「ええどす…か?」
「そ、それは…」
先の行為を求める静留になつきは視線を逸らした。
静留を抱く腕が震え、惑う。
嫌だと言えば静留は止める。
だが、その後は?
また焼ける熱を涼しい微笑で隠す静留を放って置くのか。
壊れるまで自分を殺し続けたあの時のように。
何もしないまま二度も見届けられるほどなつきは愚かでは無い。
それでも、動けないのはどうしても超えられない線があるからで…。
困惑になつきの表情が歪む。
「堪忍」
「え?」
弾けるように顔を上げるなつきから静留は離れた。
「冗談のつもりで聞いただけやから」
言って、なつきのパーカーを手早く下げ、肌を隠す。
「ちょっと度が過ぎましたなぁ」
正座し、もう一度堪忍と謝る静留になつきは声を上げた。
「静留、私は…!」
先を静留の人差し指がそっと制す。
「何も言わんでええよ。うちが悪ノリしただけどす」
襟元を合わせ、傾ぐように微笑む静留の瞳はまだ熱に潤んでいる。
熱く燃える篝火のような瞳。
己を燃やしながら周りを照らし導く。
導いてくれたのは誰?
照らし続けたのは誰?
「そろそろお日ぃさんも沈み始めたさかい」
プツリと静留がシャツの釦を留める。
「早ぉ帰らんと門も閉じてしまいますしな」
障子窓を閉める静留が閂を降ろす。
「いざとなれば隣の部屋に布団はありますけど…」
休憩用と称したサボリ場所を見つめ、静留は笑む。
「一組しかあらしまへんから」
誘うで無く、問うでも無く、事実だけが告げられる。
「帰りましょか」
畳の上で伸び切ったリボンをシャツの上で結び、静留はなつきのブレザーを取った。
「なつき?」
帰り支度を整えた静留に対して、俯いたままのなつきは身動き一つしない。
顔すら見ようとしない人形のようななつきに静留は瞳を伏せた。
最後の一線は歯を食い縛ったものの、その直前まで止めれなかった。
無言で責められているようで、静留が痛みに顔を逸らす。
「うち…先に帰りますに…」
膝の上でブレザーを畳み、なつきの前へ静かに置く。
「なつきも早ぉ帰ってな…」
自分のブレザーを腕に掛け、ゆらりと静留は立ち上がった。
置き去りにする事に惑いながらなつきに背を向ける。
「静留」
涙を握り潰す手が掴まれた。
びくっと静留が身を震わせる。
ゆっくり振り返ると強い光を放つ瞳が見つめていた。
愛しい瞳。
沈む太陽よりも輝く光。
それが、強い意志で静留を責める。
「静留」
ちょいちょいと指で招かれ、へたれ込むように静留は座った。
「言っただろう?」
両手で静留の頬を包み、なつきは見据える。
「そんな顔しなくて良いって」
言って、ぼんやりと見返す静留を抱き締め、なつきは言う。
「もう、良いから」
「せ、せやかて…」
惑う静留の唇に人差し指をなつきは添えた。
「お喋りはもう、無し…なんだろ?」
言って、ちゅっと静留の頬になつきは音を立てた。
一瞬の感触に静留の頬が薄紅に染まる。
「…なつき…」
なつきを静留は抱き締めた。
強く。
思いを込めて。
ゆっくりとなつきが静留の背に腕を回す。
抱き寄せ、瞳を閉じる。
深く唇が合わさった。
舌が絡み、息すら忘れて熱を分かつ。
唇が離れても惜しむ糸が二人を離さない。
噛むように首筋へ口付ける静留に、きりっとなつきが歯を食い縛る。
縋れば縋るほど疑念が沸く。
「…っ」
途切れがちになる意識の中でなつきは静留を見た。
行為に勤しむ顔は時折切なく歪む。
気づいているのだとなつきは思う。
間違いなのかもしれない事に…。
異なる想いで体を重ねる。
他人が見れば過ちと言うのだろう。
太腿を探る静留に、なつきは首を横に振る。
「なつき…?」
弾む息が、様子に気づいたのか顔を上げた。
熱に潤んだ瞳に翳が落ちる。
なつき微笑む。
「…何でも無い」
言って、なつきは静留のリボンに手を掛けた。
シュルリと解き、邪魔というように横へと投げる。
舞うようにリボンが落ちた。
シャツの釦を一つ、二つと外し、首筋へと手を差し入れなつきは静留を引き寄せる。
「続けよう…」
求められ、首筋に静留は舌を這わす。
緩慢な動作が、徐々に速さを増していく。
「ふ…ぁ…」
堪らず上がる声が自身を追い詰める。
太腿の付け根を探る静留の掌がゆらゆらと中心を目指す。
「ぁ…っ!」
初めて感じる自分の中の他人に、なつきから涙が溢れた。
蠢く指に感覚が霞みと光を繰り返す。
違和感と恐怖感と…安心感。
間違っていない。
間違いなどある筈がない。
この行為が過ちだと言うなら、胸に浮かぶ安堵感は何だと言うのか。
「静、留…」
汗ばんだ頬を探り、キスをなつきはねだった。
もっと安心出来るように。
この安堵を渡せるように。
深く願う。
意識が混濁する。
競り上がる中心が輝きを放つ。
意識を手放しても傍にいれるようにと、静留の手をなつきは一度も離さなかった。



