「美幸、はい」
青ざめた美幸の頬に暖かいコーヒーの缶を夏美は押し当てた。
焦点が定まっていなかった瞳が微かに正気を取り戻す。
「あ、ありがとう・・・」
弱々しい声が缶コーヒーを受け取りプルタブに指を掛ける。
カツカツと弾く音が鳴る。
まだ力が入らないのだろう。
幾度と繰り返された音はまだプルタブを開けるに至らない。
「美幸、ちょっと貸して」
美幸の手から缶コーヒーを取り、夏美は指先でプルタブを開け
る。
「ごめん。開けてから渡せば良かったわね」
言って、美幸の両手にしっかりと夏美は缶を握らせた。
「ありがとう…夏美」
両手を缶で暖めながら美幸はコーヒーを一口飲む。
コーヒーはブラックだった。
口腔に広がる苦味が美幸の頭を目覚めさせる。
「あーもぅ。何で蛇に好かれなきゃなんないのよ…」
零された愚痴に戻って来たと夏美は思う。
「良いじゃないの。あれはあれで慣れると可愛いもんよー」
「冗談じゃないわよっ!」
即座に否定して夏美を美幸は睨んだ。
「私がどれだけ怖い思いしたと思ってんのよ!体中巻きつかれたの
よ!?」
「あーはいはい」
「もう食べられるかと思ったんだからっ!!」
「解った解ったから」
どうにも今回の事件は美幸の爬虫類嫌いに拍車を掛けたらしく。
「あのチロチロした舌が目の前に来たかと思うと……」
「ちょっ!美幸!?」
目を回しそうになる美幸を夏美は慌てて受け止めた。
折角血の気が戻って来た顔が蒼白に戻っている。
失敗したとなつみは思う。
「ごめんごめん。美幸にとっては凄い怖かったんだよね」
こくりと美幸が頷く。
「そう思って内緒にしたんだけど、伝令走らせておけば良かった
ね」
「それは……」
伝令を聞いた所で、結果は一緒だったかもしれない。
夏美が言うように助かったかもしれないが早々にシャッターを閉
めてもっと己を追い込んだ可能性もある。
確立は五分と五分。
しかし、しょうちゃんは美幸を狙って連いて来たのだから、それ
を加えると出会う確立はかなり高くなる。
「夏美のせいじゃない、から」
「うーん。でもそんな青い顔で言われてもねぇ」
「これは夏美のせい」
「へ?」
違うと言われていたの責任を翻されて夏美は面を食らう。
「嫌いなの知ってるんだから思い出させないでよ!」
涙目で訴えられた夏美は慌てて両手を合わせた。
「ごめん!ほんとごめん!!」
根が深そうな訴えを今日の反省点に付け加えて夏美は言う。
「お詫びに帰りに御飯奢るからさ」
一度怒らせると美幸の怒りは後を引く。
三ヶ月は何かにつけて蒸し返され、チクリチクリと苛められる。
「それでチャラにしよ。ね?」
しょうちゃんよりも美幸の方が百倍怖い夏美は美幸の顔色を上目
遣いで窺う。
無言の顔は良いとも嫌とも言わない。
「美幸ー…」
「…良いわよ」
情けない声で呼ぶと美幸がほぅと息を吐いた。
「最後はちゃんと助けてくれたから…今回は許してあげる」
頬を赤らめて視線を逸らす美幸とは逆に夏美の顔は明るくなる。
「じゃあさ。美幸は何食べたい?」
「そうねぇ…」
嬉しそうに問うと美幸が思考を巡らす。
「和食?洋食?それとも中華?」
わくわくして待っている夏美に美幸は意外な返事をした。
「フランス料理のフルコース」
夏美の笑顔が固まった。
給料日までの日数と財布の残高が頭の中で計算され、福沢諭吉に
羽が生える。
「美、美幸・・・」
「冗談よ」
「へ?」
顔面蒼白の夏美の耳元で美幸は囁く。
「夏美、今怖かったでしょう。少しは私の気持ち解ってくれた?」
確かに夏美には恐ろしく怖い一言だった。
むしろ死活問題になるそれはしょうちゃんの比ではない。
「美幸ー…そりゃないよー…」
見事な仕返しで力が抜けた夏美は項垂れた。
「さ、帰りましょ。御飯は私が作るから」
ぽんと背を叩かれ、慰められた夏美はこくりと頷く。
「夏美は何が食べたい?」
「…お肉」
「じゃあ帰りにスーパー寄らなきゃね」
言って、美幸は夏美の手を引いた。
「美幸…」
「なに……きゃ!」
署内へと戻ろうとする美幸の手を逆に引いて、夏美は引き寄せ
る。
「な、夏美!?」
「ワニが食べたい」
「え?」
それだけ言って、夏美は署内へと走り去った。
残された美幸の頭にはワニが浮かび、そのまま爬虫類仲間のしょ
うちゃんへと繋がる。
「夏美っ!」
「冗談だって」
「冗談でも言って良い事と悪い事があるのよっ!」
怒って追いかけて来る美幸から笑いながら夏美は逃げる。
走り回る二人を止められる人間は誰もいなくて。
今日も墨東署は騒がしく一日を終えた。



