流れる夜風が日本庭園の木陰を波立たせる。
寝巻きの隙間から忍び込む凛とした空気に晒されながら、静留は乱れる髪を押
さえた。
庭の隅で鹿威しがコンと響く。
空に浮かぶ月には赤いえくぼが輝いている。
白い月の中心よりも低い位置で禍々しく光る星。
姫のみが見える宿命は日に日に大きさを増している。
見えながらも見えない振りをしていたのはほんの数日前。
愛しき人の気遣いに応え、何も言わず口を閉ざす。
騙しているとすら取れる行動は、日々を嬉しくさせ、秘めた想いに似ていたと静
留は思う。
鍵を掛けた唇は最後まで開ける予定は無かった。
なのに、開けてしまった。
奈緒になつきが捕えられたと知った刹那、迷う事無く心の底に埋めた鍵を取った。
生徒会長としての仕事も放り出し、平和すらも捨て封印した箱を開ける。
開けてはならないパンドラの箱に入っていたのは姫としての己と証のチャイルド。
そして、狂気に近しい一途な想い。
初めて光に晒した想いは、留まる事を知らず対峙した奈緒に率直な気持ちをぶ
つけた。
怒りと言う名の情が、愛しそうに呼んだ『きよひめ』は、途方も無い地へと奈緒を
叩き落とす。
鬼のような所業を瞬き一つせずにやり遂げた静留に後悔の念は無い。
むしろ当然とすら思う。
ちらりと後ろの障子へと静留は目を向けた。
奥で眠るなつきは未だ目を覚まさない。
くすりと静留は微笑む。
「何の問題もありまへんでしたなぁ」
言って、静留は障子を開けた。
なつきを鮮やかに浮かせた月は、障子が閉じる音と共にまた闇へと帰す。
庭の鹿威しが静寂の中で唯一鳴り響く。
なつきの枕元で膝を正し、襟元を静留は手馴れた仕草で直した。
「早ぉ起きてくれやす」
枕の上から肩へと垂れる黒髪を一房手に取り、掌の上で滑らせる。
せせらぎのように流れる黒髪は真っ白な寝巻きよりも、ほの白い首筋をさらに際
立たせた。
どくんと静留の脳が脈打つ。
微笑を称えていた頬が紅潮する。
そっと寝床に手を付き、静留はなつきに顔を寄せた。
「なつき…」
愛しい名を呼ぶ。
「今は…起きんといてや…」
言って、なつきの唇に自分のそれを重ねる。
パンドラの底に眠るのは希望の無い願い。
護る為なら鬼にすらなれる。
「好きどすえ。なつき…」
耳元に唇を寄せ静留は囁く。
「ん…」
なつきの瞼が身じろいだ。
静かになつきから離れ、静留は膝を正す。
ゆっくり眠り姫の瞳が開いた。
「よぉ寝てはりましたなぁ」
何事も無かったようにおはようと静留は微笑む。
「ここは…」
まだ体がだるいのか、寝床に身を埋めたまま、なつきが周囲を見回す。
「安心しておくれやす。ここはうちがお茶を教えてる生徒さんの別宅やさかい。うち
となつき以外誰もおらしまへん」
「そうか…」
短く応え、なつきは静留を見つめた。
「HiME、だったんだな…」
「堪忍しておくれやす」
瞳を伏せ、静留は頭を下げる。
「なつきが姫と言う事を黙っててくれたのうちは嬉しかったんどすえ。だからうちも
その気遣いに応えたかったんどす」
言って、静留は瞳を細めた。
「でも、今回ばかりは黙ってる訳にはあきまへんでした」
「別に…」
堪忍と続ける静留になつきの瞳から一筋の涙が零れる。
「…どうでも良かったんだ…」
涙を隠そうとも拭おうとなつきはしない。
混濁した気持ちのままに涙を流し続ける。
「あのまま死んでも…別に構わなかった…」
「そんな事言わんで欲しいどすなぁ」
悲しそうな呟きに空ろな瞳が静留を写し出す。
「うちはなつきが好きどす。だからこうして生きていてくれる事が、護れた事が本当
に嬉しいんどすえ?」
胸を撫で下ろし、心底ほっとしたように静留は言う。
「だが、私には何も無い」
答え、ぼんやり天井をなつきは見上げる。
「もう、生きてる意味さえ…ないんだ…」
冷たく突きつけられた現実はなつきの存在すら薄くさせた。
まぶしい程の光はどこに消えたのか。
まるで、月の光に惑わされ見えなくなった星のようだと静留は思う。
「私なんて…もういらない存在なんだ」
自らを否定するなつきに、静留の膝の上で掌がざわりと震えた。
「本気で…なつきは本気でそんな事言っとるんどすか…?」
なつきは応えない。
希望すら捨てた台詞に静留の心が蠢く。
パンドラの箱が軋む。
ひびが入り、漆黒の闇が静留の心へと手を伸ばす。
「本気でそんな風に思ってるんやったら…」
希望の無い願いが這いずり出た。
「うちが貰っても構いまへんか?」
なつきの顔の両端に静留は手を付いた。
覆い被さるようになつきを見下ろす。
「静…留?」
「うちはなつきが好きどす」
頬を撫で、怪しく笑む。
「本気で護りたいと、欲しいと思ってはりますんよ?」
ゆるりと首筋を撫でる。
「構いまへんか?」
そっと、なつきに静留は口付けた。
空ろな瞳が見開き、色を失っていた頬が赤く染まる。
「なつきがなつきをいらない言いはるんなら、うちが貰っても構いまへんよなぁ」
妖艶な瞳がなつきの記憶を奮い立たせた。
あの時。
奈緒に捕まった自分を助けた静留。
薄れ行く意識が最後に見届けた瞳が目の前にある。
何時だって、物事に動じない風のような静留の欲を剥き出しにする姿をなつきは
初めて見た。
「もう遠慮しませんえ?」
欲しいと望んでいる。
何もかも失った自分を必要と静留の全部が叫んでいる。
「なつきの全てをうちが貰ってもええどすか?」
「静留…」
そっと静留の背中になつきは手を回した。
「お前が望むなら…親友の静留が私を欲しいと言うなら…それも良いかもな…」
何気無い位置付けにつきりと静留の胸が痛む。
「親友…どす…か」
自嘲じみた笑みが静留に浮かんだ。
どれだけ想いを馳せても、どんなに募らせても希望の光には程遠い。
それでも、後には引けない。
もう戻れない。
鍵はもう開いてしまったのだから。
「うちの生きる場所はなつきの傍しかあらしまへんさかいに…」
言って、静留はなつきに影を重ねる。
自身すら落としながら愛しい掌を静留は絶対に離そうとしない。
壊れたパンドラの箱には、もう何も残っていなかった…。



